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高等師範学校 (1)

旧制高等学校、高等専門学校の入試は、その年から始まった進学適性検査と、学力試験の結果で合否が判定された。英語以外の科目は、真面目に勉強していなかったから、学力試験だけだったら多分合格は難しかったろうと思う。英語の試験はさほど難問ではなかったが、その中に、自分の運命を決するような問題があったのだ。時制の一致に関する問題だったが、それを見て驚いた。スクール英和の付録に出ていた用例と、一部の単語以外はほとんど同じだったのである。ところが、ここでしまったと思った。付録の用例は、主節の動詞が過去形なのに、従属節の動詞が現在形になっており、おかしいなと思いながらも確認していなかったのだ。そこで迷ったのだが、やはり、従属節の動詞は、過去形に直した。それでも心配だったので、欄外に、スクール英和付属の文法説明の○○ページの下から○○行のところに、ほとんど同じ用例があるが、そこでは現在形になっているので、大変迷ったと書いておいたのだ。ところで、その頃東京高師英語科には,青木常雄先生という名物教授がおられた。青木先生は講道館で名を馳せた跳腰の名手で、直情径行、私も教室でsentenceとparagraphを間違えて、殴られそうになったことがある。英語科の教室と柔道場が隣り合わせであったこともあり、たまに稽古をみに来てくれ、「もっと練習しなきゃな」などと説教をもらっていたのだが、あるとき突然、「解答用紙にコメントをつけたのは,開校以来お前が初めてだろうな」と笑いかけ「研究社には伝えておいたよ」と言われた。4年生になって新宿高校で教生をしていたときの事だから、先生にはかなり強烈な印象を与えたのだろう。もしかしたらこれが合格の決め手だったかもしれないなと思った。新宿の書店でスクール英和を見たら、たしかに直っていた。合格はしたものの、私はどうしても英語の講義に馴染めなかった。英米の古典的作家の作品を読むのだが、戦後の荒廃した世の中や飢餓すれすれの生活実感とあまりにもかけ離れていて、どうにも興味が持てなかったのである。アルバイトに忙しかったこともあって、だんだん教室から脚が遠のいていった。学校へ行っても居場所は道場か学生自治会だった。当時、大学には、イールズ旋風が吹き荒れていた。アメリカ占領軍による学園の赤狩りである。全学連はストライキを構え、我が自治会は、これに便乗して、学校当局にカリキュラムの改変を求めた。私も常々、この学校の履修科目が専門科目に偏りすぎ一般教養科目が少ないことに不満を持っていたので、この運動にのめりこんだ。その結果、一般教養科目が何単位か増やされたが、その中に、家永三郎教授の日本史があった。家永教授は後に教科書検定裁判で知られるようになったが、当時は少壮の歴史学者であった。家永先生との出会いは私の人生に大きなインパクトを与えることになった。初めての講義の日、私は一番前列の真ん中に座った。先生は極めて物静かな方で、この日も、静かに「君たちは何のために歴史を学ぼうとしているのですか」と問われた。指名された私は何も答えることが出来なかった。誰も答えられないでいると先生は「君たちは教師になるのですね。教師という仕事は生徒の将来をあずかることになるのですよ。過去を学ばなければ、現在は理解できません。現在を理解できなければ、将来を考えることはできません。だから先ず歴史を学んでください」と言われた。長い教科書裁判の間、先生はこの考えを貫かれたのだと私は思っている。(M)