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これまでしばしば述べてきたように、学校におけるリーディングの最大の困難点は語彙と文法にあります。それゆえ、通常のリーディングができるようになるためには、その基本となる語彙と文法の学習がまず必要であり、語彙と文法を身につけるためには、辞書をまめに引いて難しい英文テキストを和訳するという従来のやり方が最善なのだ、と考える先生方が(特に高校において)多いわけです。この考えが100%間違いだとは言えません。少なくとも前半の「その基本となる語彙と文法の学習がまず必要である」という部分については、異議をとなえる人はほとんどないと思われます。知らない単語がいくつも出てくる文章を理解することが難しいのは、万人の経験するところだからです。また、文章の中でそれぞれの語が他の語とどのような繋がりをもっているか、そして文章全体がどういう構造をしているかを知る文法知識がなければ、その文章の意味を正しく解釈することはできません。これも万人の経験するところです。こうして語彙や文法に関する問題が英語学習の重要な課題となりますので、どのような語彙をどうのようにして習得したらよいのか、またどのような文法をどのように学んだらよいのかについては、いずれ章を改めて考察するつもりでいます。

 ここで問題として取り上げたいのは、先の陳述の後半「語彙と文法を身につけるためには、辞書をまめに引いて難しい英文テキストを和訳するという従来のやり方が最善である」という部分です。本当にそうなのでしょうか。「訳読」と呼ばれるこの教授法・学習法は、明治以来の学校教育の中で培われてきたものであり、その有効性が証明されていると主張する人は数多くいます。しかし他方では、日本の英語教育がいつまでたってもコミュニケーションの役に立たないのは訳読のせいだ、「訳読」は「訳毒」だと反論する人もいます。どちらが本当でしょうか。

 訳読を擁護する人々の代表として、ここで斎藤兆史(よしふみ)氏(『英語達人列伝』、『日本人と英語』の著者)に登場していただきます。昨年、彼は新聞のインタービュー記事に登場し(朝日新聞「オピニオン欄」2009年8月1日)、記者の「中学・高校でどういう英語を教えるべきだと考えていますか」という質問に答えています。彼は言います。「基本です。生徒たちが将来、自分の目的や動機に応じて学習を積み上げていくための、土台を作ることに徹底すべきです」と。この点は私たちの考え方と完全に一致していますから、斎藤氏は私たちとそんなに遠くないところに立っていることが分かります。しかし問題としたいのは次の発言です。「具体的には?」の記者の問いに対して、斎藤氏は「文法をきちんと教え、英文を正確に読めるようにする。話せることを急いで求めてはいけません。文法と訳読の基本を身につけておけば、会話力も高度な運用力も、自分で伸ばしていくことができます」と答えています。この文法訳読方式の弁護が斎藤氏の口のすべりでないことは、彼がそのすぐ後で「日本人が明治から現在まで、話したり聞いたりするのは下手なのに、なぜ文学作品や自然科学の論文など知的に高度な英語を読めると思いますか。これは訳読という優れたシステムのおかげです」と述べていることから明らかです。このコラムはきっと文法訳読方式を信奉する多くの高校の先生方を喜ばせたことでしょう。

 斎藤氏が訳読を支持する理由が私たちに分からないわけではありません。私たちは日本語を母語とする日本人ですから、英語の学習から日本語を完全に排除することはできません。英語を習っていきなり英語でものを考えるようにはなれませんから、英文の理解に日本語の助けはある程度仕方のないことです。カントやヘーゲルの哲学書は日本語訳でも速読はできないでしょう。精読して、日本語でじっくり考えながら読むことになるでしょう。それをドイツ語や英語で読んで精読するときにはどうでしょうか。訳すか訳さないかはドイツ語や英語にどれだけ習熟しているかによりますが、書かれたものについて考えるときにはたぶん日本語を使うでしょう。母語というのは思考と深く結びついているものです。斎藤氏の考えは、英語を訳読しながら日本語で深く思考することが明治以来の日本人の教養に寄与したということです。そういう読み方(訳読)が今もあってよいと言うのならば、それはその通りだと思います。しかし、それは思想家や哲学者や翻訳家を志す人には必要なことであっても、英語を道具として使おうとする現代の一般日本人にあてはまるのでしょうか。私たちは、文法訳読方式は以下に述べるいくつかの理由から、現代の学校ではもはや機能しなくなっていると考えます。(To be continued.)