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< 声を失ったアナウンサー >         松山 薫

前回「初夢」で放送事故の話を書いたら早速元NHKプロデューサーお二人から「身につまされました」という感想が寄せられた。その中に、事故とは関係はないが、今は亡き菊谷アナウンサーの名前があったので、彼の想い出を書いておきたいと思った。
菊谷彰、旧姓武井彰君は、今、桐英会ブログを書いている4人の同期生であり、私にとってはNHKの同僚でもあった。彼は、卒業すると直ぐアナウンサーになった。学生の頃は容姿にすぐれ、演劇部員として女高師(御茶ノ水女子大)との合同公演で主役をつとめたり、脚本を書いたりしていた。けだし、アナウンサーは彼にとって天職であったろう。私は卒業後7年余り経って中途採用試験を受けてNHKに入った。局内に知る人とてなく、先ず、アナウンス室に菊谷君を訪ねた。彼は既に地方勤務を終え、一定の評価を受けて東京に戻っていたのである。しばらく話をしていると、彼は急に「変な言葉になったな」と言った。「え、何処が?」「曰く、言いがたし」と彼は話を打ち切った。放送会館(内幸町)の薄暗い廊下を歩きながら、思い当たることがあった。中越地方では、言葉のアクセントが前の方に来ることが多いのである。例えば、兎は、東京弁ではフラットに発音するが、私が最初に赴任した栃尾では、ウを強く言う。梟も同じである。従ってフクロウではなく、フクロとなるから、私は最初袋のことかなと思った。私には全く自覚症状はなかったが、6年間新潟に住んでいるうちに、影響を受けており、プロのアナウンサーである彼は直ぐに微妙な変化に気付いたのである。それから数年たってNHKが渋谷に移ってからのこと、喫茶室で二人で話をしていると,また突然「直ったな」と言った。東京弁と新潟弁のどちらがよいということではなく、どちらでもない「変な言葉」がずっと彼には耳障りであったのだろう。
同じ様なことが仕事の上でもあった。ある晩宿直勤務で夜の9時に出勤すると、菊谷君から電話が来た。「今日は泊まりだよな。中東向けの担当は誰だ」と聞くので、「俺だよ」と答えると「丁度よかった。悪いけど、30分くらい早めに編集してくれないか」ということだった。中東向けの日本語ニュースは、国内の動きがほぼ終る10時頃から編集して午前0時に録音し、その後何もなければ午前3時、現地の午後9時に再生放送する。11時頃菊谷君が新人の女性アナTさんを連れてやってきた。新人アナウンサーは入局後何ヶ月かの研修を受けるが、最終段階では中堅アナウンサーがman-to-manで面倒を見る。彼はTさんにニュースを読む練習をさせたかったのだ。Tさんは最初から躓いた。「このテープは、中東向け日本語ニュースの録音です。」というところで、フラットに読むべき中東の発音の強勢が前に来てしまうのである。何回やり直してもそうなってしまう。なんとか本文に入ると、かなりうまく読んでいったが、10分間ニュースの中間に挟んである「こちらはNHKの国際放送です。ただ今中東向けにニュースをお伝えしています。」というところの中東の発音でまたひっかかってしまった。ほとんど泣き出しそうになっているのを見て,さすがに気の毒になって「今日はもうこの辺でいいんじゃないか」と口を挟んだとたんに、菊谷アナウンサーが「部外者は黙っててくれ」と大声で叫んだ。普段は温厚な菊谷君からは想像出来ないすさまじい剣幕だったので、私もびっくりしたが、Tさんはもっと驚いたろう。何とか最後まで読んで二人は帰っていった。午前0時を廻ってソファで休んでいると菊谷君がやって来て、「さっきはすまなかった。ごめん」と謝った。「あそこまでやらんといかんのか」と言う私に彼は、「ちょっと厳しすぎたとは思うが、Tさんはアナウンサーとして素晴らしい素質をもっているから、今のうちにきちんとなおしておかないとならんのだよ」と言った。Tさんは研修を終えて大阪へ配属になった。それから数年たったある日、私は既に英語ニュースの担当に変わっていたが、東京へ帰ってきたTさんが日本語ニュースの下読みをしている姿を見かけた。副調室で編集者と彼女のアナウンスを聞いて、彼女が本当に素晴らしいアナウンサーになっていることがわかった。編集者も同意見だった。菊谷君の「カン」は、見事に適中したのである。
月に何回かはニュースや解説を読みにやってきていた菊谷君の姿が、しばらく見えないことに気付いたのは昭和56年のことだった。彼と同期のアナウンサーに聞いてみると、最初は口ごもっていたが、私と彼の関係は知っていたらしく、実は声が出なくなってしまい、回復の見込みがないので文研(放送文化研究所)へ転勤になったと教えてくれた。直ぐ、文研に電話をかけたが、受付の女性が、菊谷さんは電話には出られないという。事情を話し、こちらの用件を直接伝えたいというと、彼が出てきた。「明日行く」と伝えると。搾り出すような一寸もつれる低い声で「絶対来るな。来ても会わない」と言って電話を切った。彼の絶望の深さを感じて慰める言葉もなかった。
それからしばらくして朝日新聞に”声を失ったアナウンサー“というかなり大きなfeature記事が載った。菊谷君と親交があった記者が彼の文才を惜しんで書いたもので、「声を失っても、君にはペンがあるではないか」という思いをこめて万年筆を贈ったと結んであった。菊谷君がそのペンで書いた初めての本「日本語のすすめ」の序文の中で、同期のアナウンサー鈴木健二は次のように書いている。「穏やかで澄んだ美声、わかりやすい語り口、ユーモアを持ちながら、しかも謙虚な態度。アナウンサーになるための資質の全てを君は備えていました。それが私を圧倒しました。しかし、神は君にその言葉を失わせるという試練の道を歩ませました。だが君は死ぬほどの苦しみに耐えて、言葉への憧れに満ちた本をまとめました。」
菊谷君のように日本語を大事にし、職人的な正確さでそれを表現しようとしたアナウンサーはTV時代になってほとんどいなくなった。NHK,民放を問わず、昨今のアナウンサーの言葉には、素人の私でも首を傾げたくなることが多い。それが日本語の乱れにつながっているのでなければ幸いである。(M)
* 菊谷彰「日本語のすすめ」三修社刊 彼はこの本を若いお母さんに読んでもらいたいと願っていた。