Print This Post Print This Post

そうすると、私たちがライティングのプロセスでしばしば用いる「カン」とは何かという疑問が起こります。それは「直感」(intuition)に置きかえてよい語のように思われますが、よく考えると、用いられる場面によって少しずつ違うようにも思えます。

 すでに述べたように、文法には明確な規則の集合として提示できるものと、あまりに複雑で簡単な規則では提示できない規則とがあります。前者は文法学者によって体系的に記述され、成文化された文法書で知ることができます。後者は成文化されるにはあまりにも複雑であったり、成文化すること自体が困難な規則であったり、母語話者は無意識的に使用しているのにそれを定式化することに誰も気づかない規則であったりします。そもそも文法書に書かれている規則というのは、母語話者の脳の中に蓄えられている文法全体のほんの一部に過ぎないのかもしれません。最近の言語学の領域の拡大はそれを示唆しています。ともかく、母語話者というのは、自分の言語についてとてつもない大きな先験的知識と経験的知識を所有していて、その大部分を無意識的に使用することができるようです。意識する部分はその一部に過ぎません。それゆえ、外国語学習者は母語話者の直感には決して及ばないと主張する人が多いようです。それも一理あるように思えますが、ほんとうにそうでしょうか。

 誤文訂正のような問題で用いるカンは、母語話者の直感と関係があるかもしれません。チョムスキーはかつて母語話者の示す「文法性判断」に関して、それが子どもの先験的知識を証拠づけるものだという主張をしました。その議論の詳細はさておき、私たちが母語の発話の文法性について不思議なカンを持っていることは事実です。しかし、いくつかの可能な表現の中から一つを選ぶとか、いくつかの文をつなげて一貫性を保つという場合に用いるカンについては、母語話者の「文法性判断」のカンだけでは説明できないように思います。

 もし外国語学習者がその言語の母語話者を完全なモデルとし、それに近づくことが学習者の目標であるならば、成人の外国語学習者が母語話者を超えることは難しいでしょう。しかし、それぞれの個別言語(世界には数千の言語が存在すると言われる)が個々の人間の所有する潜在的な認知能力(cognitive capacity)の一部しか使用していないとすれば、一つの言語しか知らない人よりも、二つ以上の言語を使用する人のほうが、自分に与えられている認知能力のより多くの部分を使用していると言うことができます。個別言語が人間の認知能力の一部しか使用していないことは、たとえばどの個別言語も、人間が識別可能な母音・子音の中のほんの一部しか使用していないことから容易に理解できます。人間の潜在的認知能力は膨大なものであり、実際に人々が自分の言語に活用する認知能力はほんの一部なのです。このことから、一つの言語だけしか知らない人よりも、複数の言語を知っている人のほうが、自分の潜在的認知能力のより大きな部分を活用していると言うことができます。

 そのように考えると、私たち日本人の英語ライティングの学習は、母語である日本語の使用にかかわる認知能力の一部だけではなく、潜在的な認知能力のより多くの部分を使用することになります。ですから経験を積めば、日本語であろうと英語であろうと、自分の書く文章についてより的確なカンをはたらかせることができるようになるはずです。母語話者の直感は尊重しなくてはなりませんが、母語話者とは違う自分自身の直感を行使し、自分の母語についての直感とは異なる言語一般についての新たな直感がもたらされ、新しい言語表現を生む可能性があるように思います。このことは明治の文豪たちのことを考えると理解できます。日本の近代文学は、文明開化によってもたらされた西欧の言語文化との衝突から、新しい発想法と表現法を生み出しました。たとえば森鴎外はドイツ語とドイツ文学の出会いから、夏目漱石は英語と英文学の研究によって、日本語による独自の文学的表現を生み出しました。また、世界に禅を広めた鈴木大拙は、彼にとって外国語である英語という言語を使って、禅の思想を平易に説くことに成功しました。これらの人々にそのようなことができたのは、新しい言語と文化の出会いが彼らの潜在的認知能力の開発につながった結果であると考えることができます。先日の新聞に、将棋の羽生善治名人らの棋士には、脳に特別な直感回路が出来上がっていることが分かったという記事がありました。それは長年の訓練でそうなったと考えられるということです。天才は最初から天才であるわけではないのです。そうであるとすれば、私たちの英語ライティングの活動も、自己表現の無限の可能性を包含する領域となります。(ライティングの項終わり)