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< 教育者 >     松山 薫

 栃尾高校の想い出の最後に、雪に埋もれて眠っていた菊池政次校長のことを書こう。菊池先生は、東京文理科大学の史学科の出身で、高等師範学校時代に我々の恩師である藤井一五郎教授と知りあった。「柔道の想い出」のところで書いたが、私はお二人の縁で名前すら知らなかった栃尾へ行ったのである。

 菊池先生から「会いたい」という手紙をもらい、約束の時間に茗渓会館(同窓会館)のロビーで待っていたが、一向に現れない。もう帰ろうかと思ったが、もしかして階上のホテルの部屋にいるのかもと思い直して階段を昇っていくと、髭の濃い恰幅のよい人物が下りてきた。お互い一面識も無かったのだが、すれ違ってからなんとなく気になって、踊り場で下を見ると、その人も上を見上げていた。「菊池先生ですか?」「そうだが、松山君か?」「ハイ」ということで、ロビーに下り、先ず「何でこんなに遅れたのだ!」と一喝された。先生の手紙を示し「ロビーで待てとありますが」というと、「あれ。そうだったか。こりゃすまなかった。」ということで栃尾行きが決まった。あの時声をかけていなかったら、いや、階段でなくエレベーターを使っていたとしたら永久のすれ違いだった。私が教師になることもなかったろう。

 私は泳ぎが好きで、6歳の時に多摩川で泳ぎを憶えてから80歳を過ぎた今日まで、ずっと泳いでいる。ところが、栃尾には泳ぐところがなかった。栃尾は盆地だから夏は無風で異常に暑い。とうとう我慢できずに、生徒達が校門から道路までの間に掘った長さ50メートル幅2メートルほどの防火用水で泳いでいるところを菊池校長に捕まった。校長住宅へ連れて行かれ、どやされるなと覚悟していると、「風呂場で体を洗って来い」と言う。風呂場から出ると、浴衣が用意されていた。居間でビールを注いでくれながら、「東京育ちには我慢できんだろうなあ。次ぎはもう少しいいところに世話するから、しばらく頑張ってくれ。」と言われ身の縮む思いだった。それでも我慢できず、今度は、校舎の横を流れている刈谷田川で泳いでしまった。この川は、両岸に織物工場があって、時々色の着いた排水を流すので、泳ぐ人などはいなかった。しかし、ある日の夕方川岸から眺めると、「水清らなる刈谷田の流れ」と校歌にうたわれているような清流そのものだったので、生徒も帰ったことだしと、土手に服を脱いで、泳ぎ始めた。そのうちふと気がつくと川の色がなんとなく変なので立ち上がると、褌は勿論全身が青く染まっていた。まさに青鬼である。明日の授業はどうなるかと思ったら、今度は内側から真っ青になった。校舎の陰を伝い、小使室に転がり込むと、小使さんが仰天して「どうなすった!」と叫んだ。しかし、さすがに年の功である。近くの知り合いの工場に中和剤のようなものがあるかもしれないといって取りに行ってくれた。寮の風呂場でそれを一滴青い褌に落としてみると周りがスーと白くなったので、この液体を顔や体にこすりつけては水を浴びていたら、青味はおびているものの、何とか人間らしい姿に戻った。校長の温情を無にした天罰であったろう。

 2年目の3月、初めて入試の合否判定をする職員会議に参加した。定員150人のうち149人までは成績順に合格が決まったが、最後の1人はかなり下からの繰上げ合格にするという。“Why?”と私はこの判定に噛み付いた。校長の言い分は、150番以下でこの子だけが女生徒である。このまま落とすと、狭い地域の中で嫁入りにも響くかもしれないということだった。私は男女の平等に反し、本人のためにもよくない、150番目の子の正当な権利はどうなるのか、という理屈で食い下がり、とうとう校長が折れた。その日の夜、寮の舎監室にいると、校門のほうが騒がしくなり甲高い泣き声も交じっていた。何事かと校舎のほうへ飛んで行くと校長が暗がりの中に佇んでおり、校長室へ入れと言う。「なんとか帰ってくれた。君が落とせといった生徒の親類縁者だ。教師である限り、あの泣き声を憶えておけ。」と言われて全身の血が引いていくのを感じた。

 その年、私は新潟県教組支部の役員になった。教組の指令で、町の真ん中にある橋の上で、同僚と赤旗を立て、署名運動をやったことがある。次の日は署名を届けに長岡の支部へ行った。その留守中、町の右翼暴力団の1人がドスを持って学校へ来た。ドスを職員室の机に突き立てて、「松山を出せ。ぶっ殺してやる。」と叫んだらしい。その時、菊池校長が騒ぎを聞きつけて職員室へ入ってきた。「松山君は出張中だ。彼は組合の指令で署名運動をやっただけだ。署名の趣旨には私も賛同している。殺すというなら私を殺せ。」と暴力団員の前へ進み出たという。暴力団員は黙ってドスを引き抜き帰っていった。帰校して私はこの事件を教頭から聞いたが、校長は私には何も言わなかった。多分、私に言えば、「殺人未遂で訴える」と言い出しかねないと考え、胸にしまったのだろう。それをいいことに私は謝ることは勿論礼もいわなかった。

 栃尾で一緒だった2年間、今だったら一日も学校にいられないようなことをしでかしては、校長には大変な迷惑をかけた。教師を辞めて長い間、いつか菊池先生には謝らねばならないと思っていたが、その日が来た。元同僚から、菊池元校長が病篤く、命旦夕に迫っていると知らせてきたのである。私は、元同僚や昔の生徒達と新潟市郊外の先生のお宅へ伺った。病床の先生は、わざわざ和服に着替えた後、半身を起こし、遠くをみるような眼で、私の謝罪を黙って聞いていた。そして、「教師というのは若いうちからいろいろな経験を積んで一人前になる。君もそうしてやがてはよい教師になってくれると期待していたのだが、やめたと聞いて残念に思った。」と言われた。私は、わずかに昔の面影を残す菊池先生の横顔を見ながら、一緒に行った人達の手前、流れ出ようとする涙を必死にこらえた。それから間もなく菊池先生は90歳の天寿を全うされた。わずか2年間だったが、菊池先生のもとで働いていて、私は、教師にとって最も必要な資質は、「人を許すことではないか」と気づいた。同時に、教師はともかく、教育者になることは私には到底不可能であることを悟った。(M)