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< 教師失格 >  松山 薫

“仰げば尊としわが師の恩”という歌の原曲が最近アメリカで見つかったと報じられた。この歌は、私が教師をしていた頃は卒業式の定番だった。最初に3年間担任をした生徒達が卒業を迎えた時、ホームルームで「お前たちあの歌うたうのか」と聞いてみたら、「歌う」という。だったらオレは卒業式には耳に綿を詰めて出席するからというと、じゃあ記念にその綿をくれと言う生徒がいて教室はどっと沸いた。私も笑ってしまったが、もしかして、これは痛烈な皮肉だったのではないか。菊池校長が私に教えてくれたようなことを、3つ4つしか年の違わない私が生徒達に教えられるわけがないし、私が3年間やったことは、英語のinstructorとしての仕事に過ぎず、教師としては間違いなく落第点しかもらえなかったから、卒業式でこんな歌を目の前で歌われたら、小便をちびるのではないかと本気で思った。
 高等師範学校を卒業した時、茗渓会の幹事の先輩から、教師として絶対にしてはならないことがる、それは「50分の1」だと教えられた。当時1学級の定員は50人だったので、なかなか目が届かないだろうが、親にとってはかけがえのない1人であることを忘れるな、また、50人のうちの1人を偏愛してはならない、という教えだった。ところが、なにしろ栃尾は新潟でも有名な美人の産地で、とにかく、もう最初から1人の女生徒にメロメロになった。これだけでもう十分に教師失格である。その上、夜は酒ばかり飲んでいて、校長から厳しく言われた家庭訪問も半分くらいで時間切れになった。そのせいか、次々に問題が起きた。生徒の書店での万引き、修学旅行費の盗難、それに家出や暴力沙汰など、どれも満足に解決できず、力不足を思い知らされた。どうしてこうなるのかと考えて、自分が本気で一生教師として生きるつもりがないからだと思い至った。こうゆう中途半端な気持ちで教師をしていたら、生徒達が被害者になる。だから、二つめの学校では学級担任を断った。そうしたら教師生活が結構楽しくなったから、最初から教師には向いていなかったのだ。菊池先生のように、教育者と言われるような教師には到底なれないし、どこかで、そうなることを拒否する気持ちもあった。気持ちが徐々に教師廃業へ傾いていった時、自民党の後押しで、文部省が教員の勤務評定制度を強行した。その評定項目を見て、怒るよりあきれた。こんな評定をされながら、たった一度の人生を送ることなど、私には到底考えられなかったから、これで教師廃業の決心がついた。同時に日本の教育はこれによって破壊されていくだろうと思わざるを得なかった。こういう制度の下では、菊池校長のような教育者は生まれようがないからである。今でも、政治家や役人に、あなた方が考える教育者とはどんな人物像で、どうすればそういう教育者が生まれると考えているのか聞いてみたい。 
 とにかく、”先生”と呼ばれなくなってホッとした。「茅ヶ崎方式英語会」の皆さんにも、私を“先生”と呼ぶなと言い渡してある。私は英語を教えるinstructorではあっても、教師ではないし、ましてや教育者ではないからだ。それでも新しく入った人達はそう呼ぶので最近はあきらめ加減だが、これを読んだ英語会の諸君よ、”先生“はやめてくれ。政治家達が互いに「〇〇先生」などと呼び合っているのを聞くと反吐が出そうになることもあったが、彼等のほとんどが、その程度の人間なのだと考えて、聞き流すことにしてきた。最近はそれが誰の目にもわかるように実証されつつあるようだ。人間形成にかかわる学校の教師と、生命を預かる医師のほかは先生と呼ぶなというのが私の持論である。(M)