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新潟南高校の想い出

Author: 松山 薫

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 新潟南高校は、私にとってたいへん居心地のよい学校だった。校長、教頭は高師の先輩で、科は違うが同期生が何人もいた。型破りな先生も多く、自由な空気が横溢していた。教師が多いから学級担任も断れたし、放課後は柔道だけでなく、生徒達といろいろなスポーツを楽しんだ。昼休みに玄関前でキャチボールをしていると2階で見ている生徒達から(ボールが遅くて)「ハエがとまるぞ!」などという野次が飛んできたりした。私は学校ではジャンパーを常用していたが、ある時それが生徒会の集会で槍玉に上がった。「先生が着ているのだから、我々にもジャンパー着用を許可せよ」というのだ。私は「では、明日から一張羅の背広を着てくる。しかし、それが汚れると出張にも行けなくなるから、今後、板書は一切お断りだ。」とやりかえした。生徒達の中から、それは困る、我々は卒業してから着ればよいではないか、と言う声が出て、一件落着し、授業中にはジャンパーを着る先生が増えた。
 
 居心地のよい教師生活を送りながらも、心の底に引っかかるものがあった。生徒達の学習態度が何処となく積極性に欠けていたのである。その原因もわかっていたが、個人の力ではどうにもならないものであった。当時新潟市には普通科の公立高校が4校あった。2校は古くからの県立高校、2校は市立高校から県立高校になったもので、4校で1学区をなしていた。受験生は中学校で輪切りにされ、下位校に振り分けられた生徒の中には最初からinferiority complexを抱いているものも多かったようで、それが学習態度に反映されていたのである。
 
 3年生の学年末の英語の試験で3人の生徒が白紙答案を出したことがある。私は職員会議で、この3人は落第させるべきであると主張した。たとえ結果は零点であっても、努力のあとが認められれば考慮の余地があるが、白紙では如何ともしがたい。これでOKとなれば、生徒の将来にとってもよくないと思ったからである。職員会議は深更に及び、結局落第と決まって、3人は卒業を目前に退学した。数日たって、3人の母親たちが学校へやって来た。私は、当然復学を要求しに来たものと思った。ところが、母親たちは、かなりの金額を学校に寄贈し、生徒さん達の勉強に役立ててくださいといって帰っていったのである。私は、栃尾での入学試験の後の出来事と、菊池校長の教えを反芻して立ちすくんだ。

 2年生の中にひどい吃音の生徒がいた。私は、なるべくYes.かNo.かで答えられる設問をし、readingの練習の時には、その生徒を指名しなかった。その代わり、放課後の柔道部の練習では出来るだけその生徒と乱取りをして声をかけるようにしていた。あるときその生徒から手紙が来て、今日の夕方某映画館の前で会いたいというのである。私は待っていたが彼はついに現れず、翌朝の新聞を見て、阿賀野川の送電鉄塔から飛び降りて死んだことを知った。練習中に上級生の言葉にうまく答えられず、いじめを受けていたらしいことや、上位校に入った兄弟との格差に悩んでいたらしいことも後で知った。彼にとって生きる最後のチャンスであったかもしれないあの時、なんで自宅まで行ってやれなかったのか、悔やんでも悔やみきれない思いが残った。
 
 最後の年、私は、意を決して県教組の教育研究集会で、新潟市を信濃川を挟んで二つの学区に分ける提案を行なった。その提案が大きく地元紙に掲載され、多少の論議は呼んだが、結局何も変わらなかった。かえって、格差が顕在化され、生徒達の心の傷を一層深くしてしまったのではないかと思うと、全体状況を考えずに、突っ走ってしまった思慮の浅さを恥じる気持ちが強くなっていった。あれから半世紀が経った。市内には多くの高校が新設され南高校は古株として県内有数の進学校になっていると聞く。
 
 ところで、新潟市では私は関屋という所に下宿していた。松林の中の一本道をしばらく歩くと海岸に出る。水泳好きの私は、夏休みが過ぎても、ひと気のない海岸で、越中ふんどし一本で泳いだ。足の親指の先に釣り糸を巻きつけ、4~5メートル先の針に餌をつけて泳ぐと、ツンツンと当たりが来てキスやさばが釣れた。海岸の草むらに寝転がって、果てしなく拡がる日本海や空を行く雲を眺めて、そろそろ教師を辞めようか、やめてどうするかなどと考えながら、一時を過ごした。20年後に、ここで、あのような悲劇が起きるとは勿論知る由もなかった。関屋に住んでいた横田めぐみさんは、この道のどこかで誘拐され、おそらくは私が寝転んでいた近くの海岸からあの海の上を連れ去られたのである。めぐみさんの通っていた中学校は信濃川の左岸にあり、橋を渡った対岸に新潟南高校がある。つまり、めぐみさんの通学路と私が通勤した道はかなりの部分同じだったと考えられる。私とあまり年齢の違わないめぐみさんのご両親がTVに映し出されると、私はあの白い一本道と鉛色の海が目に浮かび、かの国の蛮行とこの国の無策に翻弄された人達の無念の思いを忘れてはならないと思う。(M)