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< 学閥 >   松山 薫

 東京高等師範学校は日本で最も古い高等教育機関のひとつで、このブログの紹介にあるように、我々第88期生が最後の卒業生である。4年間の学費は不要で給費をくれる代わりに、卒業後6年間は教師をする義務があった。従って、卒業生の大部分が戦前、戦中は旧制中学校、戦後は新制高校の教師になった。学校が大塚の茗荷谷にあったので、同窓会を茗渓会という。(異説もある)

 6年間の年期奉公も終わりに近づいた頃、新潟市内の料亭で茗渓会新潟県支部の総会が本部からの役員を迎えて開かれた。教頭から出てみてはと誘われて参加したが、出席者の多くは校長、教頭クラスや県教委の指導主事らの人達で、何処に座っていいのか戸惑った。酒宴がたけなわになると、いくつか車座ができ、後ろの方で聞いていると、当時50数校あった県立高校の校長や教頭の人事の話だった。あそこの次の校長は誰だとか、どこの教頭には誰を押し込めとか、聞いているうちに腹が立ってきて、酒の勢いも手伝い「そういう話はやめてくれ」と怒鳴って席を立った。何日か後に校長に呼ばれて「ああいう事を言っていると、校長になれなくなるよ」と忠告されたが売り言葉に買い言葉で、「結構毛だらけです。来年三月で辞めさせてもらいます。」と啖呵をきってしまった。夏休みに英語科主任のお宅に招かれた際、この話をして、たいへんお世話になりましたと挨拶したところ、それは残念だが、実は教科課程の改編で来年度から英語科の定員が1人減るのでどうしようかと思っていたところだということで、渡りに船のようだった。

 これで教師生活ともお別れだと思っていたところ、そうもいかない事情が持ち上がってしまった。母がくも膜下出血で倒れてしまったのである。かといって、やっぱり南高校に残りますとは言えないから、どこか県外と考え、母親を引き取って気候のよいところで療養させようと思い、静岡県の採用試験を受けた。英語科は、かなりな受験者で採用は若干名だというので、駄目だったら東京へ帰ってニコヨンをやろうと思っていたら、浜松北高校教諭に任用という通知が来た。

 着任してしばらくした頃、県の指導主事という人物から自宅へ招待された。行ってみると、この人物は採用試験の時の面接官で茗渓会の先輩だった。大分酔っ払った頃、彼は「実は、君をこちらに呼んだのは、君の戦闘力を買ったからだ。」と切り出した。当時浜松北高校では、校長、副校長とも東大の出身者だったが、何とか後釜に茗渓会のメンバーを当てたいので協力してくれというのである。その話によると、豊橋から糸魚川にいたるフォッサ・マグナのあたりを境にして、茗渓会と廣島高等師範学校の同窓会である尚志会が激烈な学閥争いをしていると言う。私は「ふざけるな」と怒鳴って席を蹴った。

 教育界では、茗渓会と尚志会の争いの他にも、戦前県内に二つの師範学校があったところでは、県内の小中学校、青年学校、教育委員会などで同じ様な学閥の争いが行なわれていたようだ。先年、大分県で教員採用試験をめぐる不正をきっかけに、学閥による教育委員会の支配構造と汚職が明らかになった。未だ、こんなことをやっているのかと、情けなくなると同時に、これが大分県だけの問題ではないことは自分の体験から容易に想像がついた。無理と知りつつ大掃除を期待したが、予想どおり結局はトカゲの尻尾切りに終った。(M)