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<私見 日本の生きる道 ③−5>

③−5 原発災害の責任

 日本の原子力発電は一貫して有力政治家と経済界の主導で進められてきた。廣島と長崎で核兵器の威力を世界に見せつけたアメリカは、戦後、核の独占を図って最初の軍縮提案であるバルーク案をソビエトに提示したが一蹴され、「大量報復戦略」によってソビエトを牽制しつつ、それ以外の国への核拡散を防ぐため、アイゼンハワー政権が、核兵器を持たない国には原子力発電の技術を供与する“Atoms for Peace” 政策を打ち出した。

 この政策に乗ったのが読売新聞社社主で、第1次岸内閣の科学技術庁長官だった正力松太郎である。正力は、初代原子力委員会の委員長に就任し、日本の「原子力の父」と呼ばれた。これに続いたのが、第2次岸内閣の科学技術庁長官だった中曽根康弘で、初の原子力発電関連予算を組んだ。こうして日本の原子力発電は1960年代に実用化へ向かったのだが、この小さな地震列島に、これほど多くの原発を立地させたのは田中角栄だった。自民党幹事長だった彼は原発立地三法をつくって、まず地元の新潟県柏崎市と刈羽村にカネをばら撒いた。その後、原発立地は、カネでほっぺたを叩く手法で進められた。科学が生んだ巨大技術とこれを管理する巨大組織そしてそれを食い物にする政治との鉄の三角形が出来上がっていった。政財官が癒着するこの三角形に、司法も、第4の権力と言われるマスメディアも協賛し、国民はただ黙ってそれについて行き、いわば、国ぐるみで原発を推進してきたのである。その結末である原発大災害に一体誰がどう責任を負うべきなのか。

 敗戦直後の内閣が打ち出した”一億総懺悔“という言葉がよみがえる。“一億総懺悔”は、軍部とそれに迎合した当時の支配層が、戦争と敗戦の責任の所在をあいまいにするために、一般国民を巻き込もうとしたものであった。戦前・戦中、一般国民は知る権利を完全に奪われ、判断の材料を持たなかったし、国策に反対するものは”非国民”、”国賊”として暴力で弾圧、排除されたから、”総懺悔”する責任は全くなかった。しかし、この総懺悔論は、国民が戦争責任を追及する出鼻をくじく役割を果たした。

 原発災害については、鉄の三角形の当事者は勿論、それに追随した司法やメディアの責任は重いが、今回もまた早々と、豊かな生活を享受するために電気を求めた一般国民も同罪だという説が流れた。さすがにそれは打ち消され、出鼻作戦は失敗したようだが、私は、今度は、敗戦時とは若干事情が異なると考える。現在の日本では、知る権利は一応保障されており、曲がりなりにも言論の自由がある。少数ながら”反原発”を唱える人達もいた。こうした状況の中で、原発安全神話を無批判に受け入れ、追認した国民にも責任があると思う。その反省なしに、日本が再生の道を踏み出すことは出来ないのではないか。 反省のよすがとして、私は、前回列挙した識者による75の病根を、それらが本当に病根であるのかどうかを含めて検討して見る必要があると考える。病根を除かずして健康体になることはありえないからだ。(M)