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「報道の公平性」から見るテレビ画面のこと
(1)司会者は、「ある会合の進行を司る」のは当当然のことですが、公平で適切な進め方というものは、意外と難しいものです。最悪の例は、国会の議事進行に見られます。各委員会の議長は多数党が占めるために、その司会ぶりは、決して公平とは言えません。質問者が、「総理、答えてください」と要求しても、官房長官や他の大臣の答弁を優先的に認めたりします。

(2)プロレスの中継が普通のテレビ番組から消えたのは、レフェリーのあまりにも不公平な審判があったからだと私は思っています。今でもプロレス愛好者は決して少なくないですが、多くの視聴者が離れたのは、不公平な審判に嫌気がさしたからだと思います。特に女子プロレスの凋落は惨めでした。プロ野球中継も、一時は「巨人偏重」で、その結果、今は中継時間が限定されていますし、野球よりもドラマを見たいという人が多くなりました。「奢る平家は久しからず」と始まる「平家物語」は軍記ものですが、「平家の衰亡を予言したもの」という説があります。そうだとしたら、現代でも意味を持つ予言です。

(3)アメリカでは、共和党と民主党の二大政党が長く続いていますから、どちらの支持派に属するかをはっきりさせる人が多いように思います。しかし、比較的にフォーマルで、初対面の人がいる集まりでは、宗教や政治の話は避けるのが常識です。日本文化では、自己主張をしないという風習が強いですから、よけいにこういう話題は避けられてきました。日本のマスコミは、「公平な報道」を“タテマエ”としていますが、例えば、「サンケイ」は右寄り、「朝日」は左寄りといった傾向があることは以前から言われてきました。それなら、いっそのこと“公平な報道”なんていうことは棄ててくれたほうがすっきりすると思います。

(4)増原良彦『タテマエとホンネ—日本的あいまいさを分析』(講談社現代新書、1984)という本があります。この本には、「男女が同じという馬鹿げた主張」という小見出しで、次のような個所があります。
「戦後日本の民主主義は、結局のところ『悪平等』の考え方を日本人のあいだに定着させてしまったのではないだろうか…。私はそう思えてならないのである。—中略— たとえば、学校給食がいい例である。太った子どももいれば、チビもいる。デブとチビでは、必要なカロリーがちがっている。にもかかわらず、画一的な同量を給食しているのが現行の学校給食である。」(p. 174)

(5)著者は、「不必要な差別」には反対すべきである、としながら、「悪平等」の弊害を説いています。30年以上前と現在では、社会情勢も大きく変わってはいますが、日本人はこうした問題提起にもっと真剣に取り組むべきであったと私は考えます。特に最近のテレビ画面を見ていると、視聴者に迎合していて、問題の掘り下げ方がとても浅いと感じるのです。

(6)こんなことでは、外交交渉などうまく出来ないのは当然でしょう。中国のように奸智にたけた国を相手にするには、日本は人が良すぎます。しかも政権与党がしっかりしていなのでは、国民を不幸にするだけだと憂慮に堪えません。(この回終り)