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<新潟の大洪水に想う >

 記録的な豪雨と大洪水に襲われた新潟県の中越地方は、私にとって第二の故郷であり、新潟市の信濃川堤防からみはるかす越後平野とはるかな山なみは、忘れることの出来ない心象風景になっています。

 昔を偲んで時折口ずさむ長岡高校和同会(同窓会)の歌に「本邦一の大河なる、信濃川はその西に、悠揚沃野をひたしつつ、北海さして流れ行く」という歌詞があります。長野県(では千曲川と呼ばれる)から流れてきた信濃川は小千谷付近で魚野川(ツツガムシ病で知られていた)と合流して水かさを増し、越後平野に入ります。そこでそれまでの急流がウソのようにゆったりとした流れになり、アメリカのコーン・ベルトを流れるミシシッピ川のようにmeandering しながら田畑を潤し、新潟市の真ん中を貫通して日本海に注ぎます(長岡から新潟までは約60キロ)。大河が屈曲しているため、ひとたび洪水が起きると、穀倉地帯である越後平野は水浸しになり、海抜が低いためなかなか水が引かず、甚大な損害を被る歴史を繰り返していました。

 そこで、信濃川の水を越後平野の途中で日本海に逃がす運河の掘削計画が江戸時代の末期に始まり、紆余曲折を経ながら、延べ数百万人が働いたと言われる大工事は昭和初年に完成しました。長岡市のはずれから弥彦山の麓にいたる約10キロの大河津分水(おおこうづぶんすい)です。この分水のおかげで、越後平野の洪水はほぼなくなりました。私が昭和30年に長岡の栃尾から新潟市に転勤し、信濃川をまたぐ昭和橋を初めて徒歩で渡った時、川幅が多摩川程度しかなく、日本一の大河の河口にしては意外に狭いなと感じたのは、大河津分水のことを知らなかったからです。

 今度の洪水で堤防が決壊した三条市の五十嵐川には、たびたび魚釣りに行きましたが、川幅はせいぜい2~30メートルで、歩いて渉れるところもあったように記憶しています。この五十嵐川の中流域で合流するのが、旧栃尾市の真ん中を流れ、7年前の洪水で大きな被害を出した刈谷田川です。この川も普段は幅20メートルほどの浅い川ですが、ひとたび上流の山岳地帯に大雨が降ると、両岸の堤防一杯まで50メートル近い濁流が渦巻くことになりました。昔、堤防が決壊して栃尾高校(の前身)が冠水し、奉安殿の御真影を取りに行った教頭が濁流にのまれて殉職したという話が残っています。
 
 ところが最近はそういうことは無いというのでよく聞いてみると、五十嵐川や刈谷田川の上流の山あいにダムが出来たからだというのです。多分このあたりを金城湯池の選挙地盤とする田中角栄のおかげではないかと思われます。しかし、一旦想定を超える大雨が降ると、上流の小さなダムは水圧に耐えられず大放水しなければなりません。それでかえって洪水を大きくしてしまうのです。それは想定外であったのかどうか。
 
 さすがの大河津分水も今度の豪雨には耐えられなかったようで、信濃川本流の下流域も大洪水に見舞われました。長岡にいた頃よく通った長生橋一帯が水浸しになっているTV画面を見て思い出したことがあります。この橋の近くの河川敷を田中角栄のファミリー企業が買とり、後に転売して巨利を得たという彼の失脚の原因のひとつになった事件です。自分がつくったダムと大河津分水があるから洪水はないとふんだのではないかと思います。
 
 東日本の大津波で福島第一原発が制御不能に陥った時、東京電力は想定外の出来事だったと弁解して非難を浴びましたが、自然の猛威は時として人智を超える可能性があることを今度の大洪水でも思い知らされました。 (M)