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< 終戦の日に想う ① > 松山 薫

① 軍人だった先輩達の思い出

 66回目の終戦の日がめぐってきた。毎年、310万人の戦没者を追悼する政府主催の式典が行なわれる。亡くなった方々が最大の犠牲者であることは言うまでもないが、戦争の傷あとは、多くの国民に広く、深く、長く及んだ。若き日に「国の盾」たらんと志して軍関係の学校に入り、戦後は軍国主義者として差別された人達も、私は戦争の犠牲者だと思っている。私には10人近い旧軍人の縁者、知人、友人がいたが、既に皆な世を去り、私自身来年のこの日に生存しているかどうかわからぬ年になったので、戦争によって運命を狂わされた先輩達の思いの一端を書き残しておきたい。

 10歳年上の義兄は、関東軍の将校で、3年間シベリヤに抑留された後故郷の富山県魚津に復員した。79歳でなくなった通夜の晩、親戚の1人が「彼は復員後しばらくして一緒に川のほとりを散歩していた時、立ち止まって立山連峰を見つめていたが、突然河原に伏し、大地にしがみつくようにして号泣した」と語った。山形から駆けつけた元従卒だったという人は、「岡本大隊長は将来必ず中将、大将になる人だと皆思っていました」と言っていたから、敗戦は大きな人生の挫折であったろう。しかし、彼は少なくとも私には一切愚痴をこぼさず、親兄弟そして家族のために小さな会社に入って懸命に働いた。私の家族にもたいへん気を配ってくれた。晩年には鎌倉の寺めぐりをしていたが、連れて帰れなかった多くの部下の鎮魂のためだったろう。肺気腫で亡くなる数日前、病院に見舞うと、苦しい息の下から「薫君。長い間世話になった。有難う」と言ったので、「私こそ本当にお世話になりました」と頭を下げると「お互い長男だから苦労したよな」と言ってかすかに笑い目を閉じた。
 
 女性キャスターの草分け的存在である田丸美寿々さんの父君の成三さんとはNHKの同僚であった。彼は廣島文理大英文科を出てしばらく高校の英語の教師をしていたので、話が合った。田丸さんは教師を辞めてアメリカへ渡り新聞記者をしていたのだが、40近くなって一家で帰国しNHKに入ったのである。夜勤の夜などよく一緒に飲んだが、何故教師を辞めて渡米したのかについては話さなかった。ただある時、士官学校を出て、見習士官の時に終戦になり、故郷の廣島に帰ったときに、廃墟の中で死に物狂いで或る人を探したと語ったことがある。その人の面影を忘れるために国を離れたのではなかったかと私には思えた。私がNHKを辞める決意をして健康診断をしてもらおうと局内の診療所へ行った時に、当時は報道局にいた田丸さんと偶然出合った。「辞めるんだって?また義兄さんに殴られるぞ。まあ、決心したんだったらたら頑張れよ」と励ましてくれた。「田丸さんどっか悪いんですか?」と尋ねた私に「いや、坐骨神経痛がひどくてね」と言って苦笑した。医師の話では、士官学校時代に中国戦線のクリークでの戦闘を予想して何時間も泥水に使っていたせいではないかということだった。突然の訃報が届いた時、田丸さんはまだ70歳を過ぎたばかりであった。若い頃の無理やもしかして放射能が命を短めたではないかと私は思った。美寿々さんと自宅付近の川の堤防を散歩中に倒れそのまま息を引き取ったという。所沢の斎場で行なわれた告別式での美寿々さんの惜別の辞は、深く結ばれた父娘の絆を感じさせ心を打った。

 当時のNHKでは数少ない戦争記者だった田中至さんは、海軍兵学校を出て直ぐ敗戦になり、復員船に乗り組んで働いた後、青山学院で学び、東京新聞の記者になったが、この新聞社が潰れてNHKへ移ってきたのである。安全保障問題について私に手ほどきしてくれた人であった。私の勉強のために鹿島研究所の核戦略の本の翻訳も紹介してくれた。戦術関係の用語などはよく田中さんに教えてもらったが、驚くべき勉強家だった。少しでも時間があると本を読んでいた姿を思い出す。私の長男は1965年(東京五輪の前年)9月22日に生まれたが、かなり難産であったらしい。午前中から柏市内の病院で待機していたが、なかなか生まれない。そのうちラジオの正午の時報が聞こえた。「お昼のNHKニュースです。ニューデリーの田中特派員発。インド・パキスタン戦争が終わりました。・・・」その時看護婦さんが「男のお子さんですよ。母子ともにお元気です」と知らせてくれた。帰国した田中さんに「危険なことはなかったですか」と尋ねると、「彼等は本気で戦争していたとは思えなかったよ」と言って、いつものように飄々と笑った。

 田中さんと海兵の同期だった日本語ニュースデスクの本間孝さんには、徹底的に日本語を直された。戦争中の勤労動員と敗戦後の混乱で、ほとんど授業を受けられなかった私は、漢字も、送り仮名も、敬語の使い方も、文法も自己流で、ニュース原稿も自分流に書きなぐった。本間デスクは、黙って原稿に手を入れ、時には全文書きなおしてくれた。本間さんは“痔持ち”で酒はあまり飲まなかったが、酒席ではいつもニコニコと我々の勝手な議論を聞いていた。戦争の話は一度も聞いたことがない。田丸さんとは同じ年で、時々NHKの食堂などで話し込んでいるのを見かけたが、二人だけの席では戦争中の話をしたのだろうか。今、このようなブログを書いていられるのも本間デスクのおかげである。

 これらの先輩達は、東大でも京大でも受験すれば合格できたと思うが、占領中は進駐軍の軍国主義思想の排除命令で、軍関係の学校に在籍した者の国公立大学・高専への入学は、定員の一割しか認められなかった。そのため多くが私立大学を卒業しており、NHKのような組織では、割を食っていたことは間違いない。しかし、先輩達は、戦争で運命を狂わされながら、愚痴を言わずに誠実に生き、日本復興の礎を築く一端を担ったと思う。先輩達には、余計なことをするなと言われそうだが、直近の後輩として、そのことを書き残しておきたい。(M)