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平泉試案の中の「それ(外国語)は膨大な時間をかけて習得される暗記の記号体系であって、義務教育の対象とすることは本来むりである」という部分を取り上げて、それがいかに誤解に基づくものであるかを述べました。いかなる言語も単なる「暗記の記号体系」ではありません。しかしすでに示唆したように、筆者は外国語学習に暗記が無用であるとは考えておりません。学習者は各自自分に与えられた記憶力を最大限に活用すべきです。特に単語の大部分は、言語学者・ソシュールのいう「恣意的な記号」ですから、それらはそういうものとして記憶しなければなりません。これはかなりつらい努力を必要とするものですが、外国語を使えるようにするためにはその努力を怠ることはできません。そしてその努力は、義務教育の対象とすることがむりであるほど困難なものとは思えません。すべての人は、各人に与えられている記憶力を活用することによって、自分が必要とするレベルの習得に達することが可能だと筆者は考えています。それが義務教育の目的の一つです。平泉試案は外交官のような国際的に活躍できるレベルの達成を考え、そのために一部の優秀な者たちだけを選抜してエリート教育を施すことを提案したのですが、それは義務教育修了後の問題です。義務教育はすべての人の可能性を引きだすことに専念すべきです。

 では、どのようにしたら私たちは各自の記憶力を高めることができるのでしょうか。記憶は古くから心理学の関心事でした。たとえば19世紀末にエビングハウス(1850—1909)の見出した「忘却曲線」は、現在でも多くの記憶文献に引用されています。彼は3つのアルファベットの組み合わせから成る無意味語をたくさん被験者に覚えさせ、その記憶がどのように忘れられていくかを調べたのでした。それによると、忘却は最初が急速で、初めの4時間で半分近くが忘れられ、その後時間がたつにつれて、ゆっくり下がっていくというものです。ですから、覚える数があらかじめ決まっている単語の暗記のような記憶テストでは、テスト前の4時間以内に集中的に覚えるのが効果的だということになります。エビングハウス以後、近年の脳科学は記憶のメカニズムについて新しい事実を次々に明らかにしてきました。記憶は脳のどの部位でどのようになされているか、また記憶されたものは脳のどの部位に蓄えられているかなど、かなり明らかになっています。しかし、そのような現代脳科学の記憶に関する研究を詳しく知るには、かなり専門的な知識を必要とします。ありがたいことに、最近はそういう知識を一般の人々にも分かるように説明してくれる本が書かれています。たとえば、池谷裕二『記憶力を強くする 最新脳科学が語る記憶のしくみと鍛え方』(ブルーバックス、2001)がその一つです。以下に、記憶についての最新の研究が明らかにしている事実を、筆者なりにまとめてみます。

 まず記憶にとって重要な脳の部位は「海馬(かいば)」と呼ばれます。それは脳の中の奥深いところに格納されています。それは大脳皮質の奥の、脳の中心近くに置かれることで、外界からの損傷を受けないように大切に保護されているかのようです。人の海馬にはおよそ1000万個の神経細胞がありますが、これは人の脳全体の神経細胞が約1000億個であることを考えると、それほど大きな数ではありません。海馬は進化論的に下等な動物でもよく発達していて、その脳に対する割合は下等なほど高いと言われています。つまり、人では大脳皮質が非常に発達しているので、海馬の割合は他の動物よりも小さいわけです。しかし海馬の神経細胞は、他の脳細胞とは異なる注目すべき特質が見られます。脳の神経細胞は生まれたときにもっとも数が多く、歳をとるにしたがって減っていきますが、海馬の中の「歯状回(しじょうかい)」と呼ばれる部位の神経細胞だけは、分裂して増殖する能力があることが分かっています。そしてそれは、生まれたときにはまだ完成されておらず、誕生後2年または3年後に完全な形になります。私たちが幼児期の記憶が曖昧であったり、ほとんど思い出すことができないのはそのためだと考えられています。

 記憶とは、脳科学の表現では、神経回路のパターンが変化することです。「覚えていない状態」から「覚えている状態」に変化するのは、神経細胞の繋がり方が変化し、新しいパターンを作り上げるからです。そしてその変化した状態が持続することが重要です。一時的に変化してもそれが持続しなければ記憶は保持されません。海馬の神経細胞はそれを可能にしています。しかし海馬は記憶の貯蔵庫ではありません。それは記憶すべきものを取捨選択し、記憶貯蔵庫(側頭葉)に送りだしているところなのです。そこで私たちの次の関心事は、どのようにしたら海馬における神経回路の変化を効率よく起こすことができるのか、そしてその変化を持続させるにはどうしたらよいのか、ということになります。(To be continued.)