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記憶が脳の中に新しい神経回路のパターンを作り上げることであるとすれば、私たちはどのようにしたらそれを効率的に成し遂げることができるでしょうか。そのことを考えるには、人の神経回路の特質を知る必要があります。神経回路とはいったいどういう性質のものなのか、そしてそれはどのようにして変化するのかについて、ある程度の基本的な知識が必要です。このことをあまり専門的な用語を使わずに説明するのは難しいのですが、先に紹介した本の著者・池谷裕二氏は、脳の記憶方法とコンピュータの記憶方法の違いを分かりやすく解説していますので、その部分を引用させていただきます。

 「コンピューターはアドレス方式とよばれる方法で記憶します。つまり、記憶する場所があらかじめ用意されているのです。しかも、その場所は数多くの小部屋からなり、順に部屋番号(アドレス)が決められています。記憶する事象はその小部屋に個別に格納され、ふたたび記憶をよび出すときには、部屋番号を指定し、その内容を取りだすという非常に能率的な方法をとっています。おのおのの小部屋は互いに完全に独立しているので、収納や取りだしの過程で妙な間違いはおきません。

「一方、脳では、記憶は神経回路にたくわえられるのですが、じつは、同じ神経細胞がほかの記憶にも使われます。なぜなら、ひとつの神経回路にひとつの記憶しか貯蔵できなかったとしたら、記憶の容量はかなり限られてしまうからです。これでは、回路と同じ数の情報しか覚えられなくなってしまいます。ですから、記憶容量を確保するためにも、脳はいろいろとやり繰りしながら、神経細胞を使い回さなければなりません。(図19略)その結果として、ひとつの神経回路にはさまざまな情報が同時に雑居してたくわえられることになります。当然、こうしてたくわえられた情報は互いに相互作用してしまいます。人の記憶が曖昧である理由はまさにここにあります。」(『記憶力を強くする』143ページより)

 後半の説明はこれでもちょっと難しいかもしれません。次のように考えたらよいでしょうか。ここに一つの神経回路があるとして、そこには多数の神経細胞(ニューロン)がシナプスによって連結し、ネットワークを作っています。記憶はその回路に一定のパターンが作られることです。そしてその同じ回路を使って幾つもの記憶パターンが作られます。このように一つの神経回路にはいくつもの記憶パターンが作られ、それらは複雑に入り乱れて錯綜することになります。池谷裕二氏の説明はそのことを言っています。そういうわけで、一見、記憶装置としてはコンピュータのほうが正確で効率がよいように思えます。しかし脳のほうは「同じ神経細胞がほかの記憶にも使われる」ので、一つの神経回路にたくわえられる記憶情報は互いに作用し合います。これが人間の記憶の一大特徴なのです。つまり、それによってまったく異なる記憶情報を関連づけることが可能になるのです。平均すると、一つの神経細胞はおよそ1万個の他の神経細胞と繋がっているので、記憶は曖昧で乱雑になりがちです。しかしこの仕組みこそが、コンピュータとはまったく異なる脳の特質であり、そこから人の創造性や独創性が生まれてくるというわけです。

 では、脳の神経回路が変化し、新しいパターンが生じるのはどういう場合でしょうか。第1に、シナプスに強い信号が送られる必要があることが分かっています。弱い刺激ではシナプスが繋がらないのです。シナプスは神経細胞どうしの「すき間」ですが、そこでは一方の神経細胞から伝わってくる電気信号を化学信号に変え、それを次の神経細胞に伝え、そこで再び化学信号を電気信号に変えるという、複雑な作業がなされます。最近の脳科学はその詳細なメカニズムを明らかにしつつあります。そのような複雑なシステムに変化をもたらすためには、一定の強さ以上の刺激が必要なことが分かっています。そしてその強さは、脳の他の部分から送られてくる信号が関係していることも分かっています。私たちは自分に強い興味のある事柄や、自分が感動した事柄をよく記憶します。それは、脳に新しい記憶パターンを作るためには意志や情動の強いインパクトを必要としているからです。意識や意志の座は前頭葉にあります。人は自分が覚えようとしたものだけを記憶します。もう一方の情動(恐怖、驚き、快楽、悲哀など)は、海馬のすぐそばにある「扁桃体(へんとうたい)」と呼ばれる直径1センチほどの球形をした部位から生まれます。人でも動物でも扁桃体が活動すると海馬の記憶活動が活発になることが知られています。そういうわけで、海馬の神経回路に新しい記憶パターンを作るためには、強い意志的・情動的インパクトが必要なのです。ぼんやりしている間にいつのまにか新しい記憶パターンが出来上がるということはないのです。(To be continued.)