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学習意欲の心理学(序)

Author: 土屋澄男

前回書いた文章の中に、「英語が上達しない原因は、多くの場合、記憶の欠陥よりも経験と時間の不足にあるように思われます」というのがありました。言語の習得には、多くの経験とそのための時間が必要だということについては、ほとんど異論はないと筆者は考えています。もちろん、どんな経験をするか、その中身は何かについては、いろいろ議論があるでしょう。また時間については、どれだけの時間が必要なのか、それはまとまった時間がよいのか、分散した時間がよいのかについても、かなりの議論があるでしょう。しかし、とにかく言語の習得に経験と時間が必要だということは間違いありません。経験と時間では、経験するためには時間が必要であり、時間がなければ経験もできないわけですから、特に日常的に使用されない外国語の学習においては、まず時間を確保することが絶対に必要です。そして学習者は、目標を達成するまで、必要な時間を確保するために最大限の努力をしなければなりません。多くの日本人学習者が英語学習に失敗する原因は、時間を作る努力が不足しているためだと言ってよいでしょう。そしてそれは学習意欲の問題とも大いに関係します。そこで、これから数回にわって、学習時間の捻出と学習意欲に関係するいくつかの問題について、やや詳しく考察しようと思います。

 まず学習時間の問題から始めます。多くの日本人が、中学・高校の6年間の英語学習に加え、2年ないし4年間の大学での学習を経験しながら、なぜ英語が使えるようにならないのか。これはこれまでにも幾度か発した問いですが、その大きな原因の一つは、明らかに、学習時間が不足しているためです。学習内容も問題でしょうが、それよりも学習の総時間数が不足しているのです。日本人が英語を使えるようになるためには、いったいどれくらいの時間が必要なのでしょうか。そのことを考えるために、いま筆者の手許にカナダのバイリンガル教育について調査した文献(伊東治己著『カナダのバイリンガル教育—イマ—ション・プログラムと日本の英語教育の接点を求めて—』渓水社 1997)がありますので、それを基にして考えてみましょう。

 そのデータによると、カナダのオンタリオ州では、英語を母語とする生徒たちが初等学校4年生から中等学校修了時までの10年間に達成すべきフランス語の到達目標が、分かりやすく記述されています。そのうち基礎レベルは必修ですが、中級・上級のプログラムは、基礎レベルに加えて生徒が選択できるようになっています。そして、それぞれのレベルに到達するために必要な授業基準(10年間の授業時間数)が明確に定められています。各レベルの10年間の累積授業時間は次のようです。

 基礎レベル1,200時間 / 中級レベル2,160 時間 / 上級レベル5,070時間

上記のオンタリオ州のフランス語授業時間数は、日本の学校における英語授業時間数とは大きな違いがあります。日本では、中学1年から大学2年までの8年間、週4時間ずつ年間35週の英語授業を受けたとして、その合計時間数は1,120時間になります(それくらいが平均授業数と考えられます)。今年から小学校5・6年生に週1時間の「外国語活動」という授業が始まりましたので、それを加えると、日本の学校英語教育の総時間数はちょうどオンタリオ州のフランス語「基礎レベル」修了の時間数に相当することになります。日本の大学生が中級レベルに達するには、さらに約1,000時間の学習が必要になります。

 話はそこで終わりません。カナダは英語とフランス語を公用語とするバイリンガル国家ですから、英語を母語とするカナダ人のフランス語学習と、完全な外国語環境で英語を学習する日本人の授業数を単純に比較するわけにはいきません。学習環境が非常に違うからです。また、英語母語話者のフランス語学習と日本語母語話者の英語学習を単純に比較することもできません。なぜなら、英語とフランス語の言語の違いよりも、英語と日本語の言語の違いのほうがずっと大きいからです。つまり、日本人の英語学習は、カナダ人のフランス語学習に比べて、格段に不利な条件にあります。幾人かの研究者の試算によると、日本人の英語学習は、英語話者のフランス語学習よりも少なくとも2倍の学習時間を必要とします(3倍以上必要だとする人もあります)。2倍だとすると、私たちは英語の基礎レベルの学習に2,000時間以上、中級レベルに達するのに4,000時間以上を必要とすることになります。これは大雑把な計算ですが、真実からそれほど遠くはないように思われます。では、日本にいて英語の中級レベルに達するには、私たちはどのようにしてその時間を生みだしたらよいでしょうか。学校でその時間を保証してくれないとしたら、その努力を何によって支えたらよいでしょうか。そこで学習意欲の心理学が始まります(To be continued.)