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< 英語との付き合い ⑰ > 松山薫

英語との付き合い⑰ 貿易商社(1)入社 

 3行広告を頼りにその貿易商社に電話をしてみると、優しい声の女性が入社試験の日取りと会場を丁寧に教えてくれ、失業疲れの身にはなにかホッとするものを感じた。教師廃業とともに英語とも縁を切ったつもりだったが、背に腹はかえられず、当日履歴書を持って試験会場へ行ってみると、銀座裏のレストランを借りた会場には既に30人ほどの受験者が集まっており、最終的には50人くらいが受験した。この人数を見て、なべ底不況の深刻さをあらためて肌で感ずるとともに、義兄との約束がよみがえった。

 試験問題は商業通信文(correspondenceコレポン)の英訳と和訳で、内容はさほど難しいものではなかったが、通信文のしきたり等はまったく知らなかったので、多分ダメだろうと思っていたら面接の通知が来た。社長は40代の人物で、元教師というのが気に入ったらしく,「元先生なら悪いことはしないよな」と言って、あっさり月給1万8千円で入社となった。当時としては悪くない給料だった。会社は京橋の木造家屋の2階に間借りしており、社長室と事務室で男女数人の社員が働いていた。本社は大阪にあり、社長の弟がボスで、つまり典型的な同族企業だった。取り扱っているのは西ドイツの活版印刷機を中心に印刷関連機器やインクの輸入が主体であった。私の机は10畳ほどの社長室の片隅に、応接セットを挟んで社長の大机の対角線上にあり、常時監視されているような具合だったが、幸いなことに、社長は海外出張や得意先回りで出歩くことが多くて助かった。来客も多く、社長や担当者が彼らと話すのを聞いていると自然に仕事の内容が分かるようになっていったから、私をそこに座らせたのは、はやく一人前にしてやろうという社長の配慮だったのかもしれない。

 6人の社員は皆私を暖かく迎え入れてくれたし、優しい声の年長の女性は本当に親切な人で、社内のしきたりや貿易実務を初歩から懇切に教えてくれた。コレポンはそれまで、経専出身で英語自慢の社長が書いていたらしいが、形式が決まっているので、トラブルでもなければ特に面倒なことはなく、だんだん馴れていったが、それが油断を呼んだ。

 入社3ヶ月で犯した大失敗は、英文のカタログを読み違えて、orderを間違えた上invoiceを十分確認していなかったことが原因だった。或る日横浜税関から呼び出しが来て、「あんたの所はいったい何を輸入したのか。説明に来い」と言うので行ってみて愕然とした。当時日本にはなかったノートの背中を螺旋で閉じる機械をスイスのメーカーに5台注文したはずだったのだが、保税上屋にあったのは、punching machine(穴あけ機)だけで、肝心の螺旋を巻きつけるspiraling deviceが入っていなかった。社長に「自分で後始末をしろ」と怒鳴られて、通産省にお百度をふみ、さんざん油を絞られた上、何とか追加の輸入を許可してもらった。当時外貨は割り当て制で、勝手に輸入することは不可能だったのである。管理貿易の下ではお役人は神様だ。東京税関に輸入申請に行くと、延々待たされた上、昼休みになると全員昼食に外出、帰ってくるとタバコを悠然とふかし、囲碁や将棋に興じ、1時までは金輪際仕事をしない。その間申請者は列を作って、彼等の様子をただ黙ってみているのである。

 会社の主力商品はドイツ製の活版印刷機で、FOBで一台100万円の機械が、300万円で売れるのだから、まことにうまみのある商売であった。したがって会社の幹部は、何台分の外貨割り当てを受けられるかに血眼になり、当然通産省の担当官へは賄賂、政治家には盆暮れの付け届けというお賽銭をばら撒いていた。役人の中には女とどこかへしけこんで、そこへカネを持ってくるよう電話をしてくる輩までいた。こういう連中はたいてい定年間際のノンキャリの課長補佐クラスで、キャリアの若手官僚は、”愛国心“に燃えて別の悪行を重ねていた。外貨を節約するために、外国製品のコピーを日本のメーカーに作らせるのである。この活版印刷機のコピーは大手機械メーカーが作った。しかし、売れなかった。活版印刷機というのは極めて精密な機械で、微小なドットの中に3原色を打ち込むのだから、ちょっとでもずれると、印刷が不鮮明になってしまうのである。最大の得意先である進駐軍はもとより原色版の印刷会社がそんなやわな機械を買うはずがなかった。当時の日本の工業製品は”安かろう、悪かろう”の代名詞だったから、官民一体となって”先進国にまなべ“とばかり、西欧の模造品作りに励んでいたのである。(M)