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貿易商社(3)退社へ

 今回と次回は、1年足らずで私がこの会社を辞めることになった経緯なので、英語とは直接関係がない。

 印刷業界の会社は、凸版印刷や大日本印刷などを除くと、ほとんど中・小・零細企業である。社長は1人で企業の命運を担っているのでどうしてもワンマンになりやすい。中・小・零細企業には同族企業が多く、経営者が世襲であることも珍しくない。世襲の場会、名君が生まれた時はよいが、暴君の場合は家臣つまり従業員は悲惨なことになる。この貿易商社の社長は2代目だか3代目だったが、商才もあり、悪い人ではなかった。だが、酒好きが玉に瑕だった。酒が入ると人が変る。
 
 私が新潟で大酒飲みになっていたことを知った社長は、夕方からしばしば私を銀座のバーや小料理屋へ連れ出した。そこへ通産の役人や、得意先の印刷会社の役員などを呼んで接待するのである。酒が回ると大型の財布から千円札を取り出してひらひらさせながら、「誰かこの男と腕相撲をして、勝ったらこれをやるぞ」と叫ぶ。当時私は腕周りが35センチあり、たいてい負けることはなかったが、これではていのよいタイコ持ちではないか。看板近くになると待たせておいた運転手つきの車で先ず私を終電車に間に合うように国電の駅まで送り、「今日はご苦労さん。おかげで話がうまくいった」とねぎらうのである。終電車でうたた寝すると終点の大宮駅まで連れて行かれる。大宮駅では、到着と同時にベンチの争奪戦が始まり、あぶれた場合はプラットホームに新聞を敷いて寝ることになる。始発前には駅員がおこして回る。これも月給のうちと思って我慢していたが、それで朝は8時半に出勤せよというのだから、28歳だった私も、さすがに段々体調がおかしくなってきた。
 
 ところで、私は、社長の「好意」で、週一回、社長の2人の息子の家庭教師をして追加の給与をもらっていた。多くの入社希望者の中から私を採用したのは、家庭教師をさせることも、目論みの中に入っていたようだ。社長の自宅へ行くので、奥さんとも顔なじみになった。初めは歓待してくれたが、段々奥さんの態度が変ってきた。社長が毎晩のように銀座のバーなどに通うのは、お前のせいだというのである。否定したら逆上したので、その後は面罵にも黙って耐えた。それで、母の病気を理由に、3度に1度は社長の誘いを断るようにしていたが、社長から「君のおかげで業績が上がっている」と言われると、そうそう断るわけにも行かない。なにしろ、コレポン以外の本業の方は半人前以下なのである。

 そんな或る日、私が辞めるきっかけになる事件が起きた。社長が大阪の本社へ出かけるというので、いつものように若い女性の事務員が東京駅へ乗車券と特急券を買いに行った帰りに落としてしまった。彼女は泣いて謝ったが、酒が入っていた社長は、どこかへ隠したのだろうと言って責め立て、気の優しい年長の女性事務員に、徹底的に調べろと言い渡した。狭い社内のことで私もいたたまれず、割って入って、月給から弁償することでなんとか落着したが、その際社長ともみ合って腕をねじ上げることになってしまった。当然社長は「辞めろ!出て行け!!」と怒鳴った。まことに“組合なき労働者は本質的には奴隷と同じ”なのである。

 そこで、ひそかに考え始めたのが労働組合の結成だった。ところが、調べてみると、社員の多くが社長の縁者で、うっかりするとこちらの首が危うくなる恐れが強いことが分かった。当時は、個人で加入できる「全国一般」のような労働組合もなかった。

 クモ膜下出血で倒れた母の体調も一応回復してきたので、そろそろ転職を考えないと心身ともにもたないと感じていた或る日、朝日新聞の「NHK戦後初の職員中途採用」という囲み記事が目に留まった。まあ”駄目もと”で受けてみるかと思って願書をだした。職種は国際局の記者と教育局のプロデューサーであったが、教育とは縁を切りたかったので、また英語のお世話になるのかと思いつつも国際局のほうを選んだ。年齢制限の28歳ギリギリのところであった。勿論、社長にも同僚の社員達にも内緒である。(M)