Archive for 12月 19th, 2010

文章を書くことは多くの人にとって難しい活動です。母語では不自由なく聴いたり話したり読んだりできる人でも、書くことになると尻込みする人が多いようです。母語でさえそうですから、外国語で書くことはさらに難しいと感じるのは当然です。しかし以前にくらべると、ワープロやパソコンが使えるようになって、書くことがずいぶん楽になりました。筆者がワープロを使い出したのは1980年代の終わりころでしたが、最初のうちは下書きを従来どおり原稿用紙に書いて、清書のときだけワープロを使いました。やがてパソコンの時代になって、原稿は最初からパソコンのワードで書くようになりました。そして新しい発見をしました。パソコンを使って書くと、編集が自在になりますから、まず思いつくままに書いていって、書きながら編集をすることができます。自由に付け足すことができ、自由に消すことができ、語順や文順を入れ替え、ときにはパラグラフを入れ替えることもできます。つまり、自分の頭の中に思い浮かぶままに、文章を手直しできるというわけです。これは自分の文章を作るときに脳の中で起こっているプロセスをそのまま反映しているわけで、それまでの手書きの原稿の作り方では味わうことのできないスリリングな体験でした。それから20年経った現在ではすっかり慣れてしまって、かつてのスリリングな感覚を味わうことができませんが、ライティングの学習について考えるうちに、かつてのそういう感覚を思い出しました。

 ライティングのプロセスは、大きく分けて、立案・文章構成・改訂(planning/composing/revising)の3つの認知段階からなります。熟練した書き手は、意識的または無意識的に、それら3つの段階を繰り返して最終稿に至ります。つまり、書き手は文章を作るときに、立案と構成と改訂を繰り返しながら先に進んでいくというわけです。このプロセスは、おそらく、音楽家の作曲のプロセスと共通しています。曲想が浮かび、それを作曲法に則して譜面に書き、書いたものを改訂します。そしてその作業を自分の中にある曲想に合致するまで繰り返します。ですから作曲家たちの書いた楽譜には多くの改訂の跡がしるされています。たぶん、出来上がった楽譜が汚れているほど作曲家の苦心が大きかったことを示しています。ブラームスなどは、第1交響曲を構想してから、その完成に20年を要したと言われています。ところがモーツァルトの楽譜だけはほとんど書き直しがない、あっても少ししかないというのですから驚きです。モーツァルトの場合には、おそらく、最初の曲想を得る段階で曲のほとんどが完全な姿でイメージされており、構成の段階でも次々に曲想が展開されて淀みなくペンが滑っていったのでしょう。しかしそのような作曲家は例外です。

 ライティングの場合にも、モーツァルトのような作家や文筆家は少ないと思われます。たいていの作家は、1字1字、1行1行、熟考しながら文章を創り出し、それを改訂しながら書き進みます。その苦心の跡は作家たちの残した手書き原稿にはっきりと現れています。たぶん、破いて棄てられた原稿もたくさんあったでしょう。その点で、パソコンで作る原稿は違っています。出来上がった原稿にはまったく苦心の跡が残されていません。しかしライティングを学ぼうとする人は、最初にこのことを知る必要があります。文章というのは、熟達した書き手でも、自動的にすらすらと書けるものではないということです。まず構想を立て、それを文章に構成し、改訂するという難しい作業を忍耐づよく遂行するのです。以前大学で英作文の授業を担当したことがありました。そこで感じたことの第1は、学生たちがいかにも安易に英文を書いてくることでした。着想にはおもしろいものがありました。しかし多くの作文に、読者からみて言い足りないと思う箇所、何を言わんとしているのか分からないセンテンス、基本的な文法の間違いなどがたくさん含まれていました。また、そういう作文を教師が多大な時間を消費して添削してあげても、期待するほど効果のないことも分かりました。要するに、学習者自身が自分の作文の欠陥に気づき、自分の手で改訂しなければ効果はないのです。そこで筆者が教師として気づいたことは、いかにしてそれぞれの学生に、自分の弱点に気づかせるかということでした。そして何よりも大切なのは、自分がこれでよしと納得するまで、自分の構想したものが適切に表現されるように意志と意欲を保ち続けることです。これを怠ってはライティングの進歩は望めません。

 この稿は英語学習者を対象としていますので、ライティングの習熟を目指すときに学習者自身が心がけるべきことをいくつか、以下に述べてみたいと思います。(To be continued.)