Archive for 2月, 2011

「公共放送」を考える(続き)
(1)前回の最初に「公共放送と言えば、NHK のことと普通の日本人は考えるでしょう」と書きましたが、私信のメールで、「NHK と限定することは間違いではないか」「法律的には細かい規定がある」といったご意見をもらいました。一般性があるご指摘なので、ここで、新しい見解も加えて釈明と補足をさせて頂きたいと思います。

(2)ある民放のテレビ番組で、漫才出身のタレントが、「(カメラに向かって)母ちゃん、見てるかい?おれ元気だよ」と言うと、相方が、「バカ、お前公共の電波を使ってそんなことを言うな」と突っ込みを入れました。ですから、民放の出演者にも「公共の電波」という意識があることが分かります。新聞、雑誌、書籍でも、出版する側には「公共性」という意識があるのが普通でしょう。私はそのことを否定するつもりはありません。

(3)ただし、私が上記(1)のように書いたのにも少し根拠があって、限られた範囲ですが、「公共放送」と聞いて連想するものは?という問いに、9割くらいの人がNHK と答えたのです。言葉というものは、厳密な定義と一般の人の用法がずれていることはよくあることです。大事なのは、「(そのような)ずれがある」ということを忘れないでいることでしょう。

「日本と外国の CM の違い」について
(1)日本人が話したり、書いたりする文章は、「廻りくどくて、結論がわかりにくい」とよく言われます。しかし、テレビのCM は、何の宣伝かすぐ分かります。1つには、15秒か30秒という短いものが多くなったからかも知れません。それともう1つは、日本人の付和雷同性があると思います。商品名を繰り返しておけば、何かのきっかけで売れて、口コミで評判になりやすいのです。

(2)以前よく聞かれた、Drink Coca-Cola.(コカコーラを飲め) は日本語では、「コカコーラを飲みましょう」となります。ただし、英語にはもう少しひねった、Only Coca-Cola is Coke. Only Coke is Coca-Cola.(コカコーラだけがコークです、コークだけがコカコーラです) というのがあって、これは青木茂芳『英語キャッチコピーのおもしろさ』(大修館書店、2000)にあるものです。著者によると、ライバル会社(アメリカではコカコーラより有力)のペプシコーラを意識したキャッチフレーズとのことです。また、外国のテレビCMにはユーモアのあるものが多く、日本のテレビでも、そういう CMを集めて、「何の CM でしょうか?」とクイズにする番組が放映されることがあります。

(3)テレビ CM の特徴や分析に興味のある方は、内田隆三『テレビ CM を読み解く』(講談社現代新書、1997)が参考になるでしょう。やや古いですが、広告媒体としてのテレビと CM の変遷を知るには適しています。昔から、画面の効果では、「子どもと動物にはかなわない」と言われてきました。しかし“こども店長”の加藤清史郎くん(小学校2年生)や天才子役と言われる芦田愛菜ちゃん(6歳)のように出過ぎても逆効果になる恐れがあります。

(4)“ソフトバンク”の宣伝では、白い犬とその家族が面白い展開を見せていましたが、話が複雑になって、犬がひっくり返るようなのは感心できませんでした。さすがにこれはすぐに終わりましたが、子どもや動物の可愛さを出したいなら、余り手を加えないものがよいと思います。愛菜ちゃんは、「徹子の部屋」での黒柳徹子とのやり取りなど大人のタレントも顔負けの堂々たるものでした。どのようなものでも広告には騙されないだけの批判精神は必要でしょう。(この回終り)

< 大雪の想い出 >     

                             松山 薫

 この冬日本海側は、記録的な大雪で大変なようだが、私が栃尾で教師をしていた2年目の冬も豪雪だった。私が下宿していたのは町外れの、小学校の校長先生のお宅だったが、先生は、町から数キロも離れた学校に家族と一緒に赴任していて、たまにしか帰宅せず、家には70を超えた脚の悪いお祖母さんが残されており、私はいわば用心棒として、2階3部屋を月千円で貸りていたのである。トイレは階段を下り、廊下をぐるっと廻った裏側にあり、凍てつく夜中に小便に立つのはまことに苦痛であった。それで、いつのまにか、2階の雨戸を細めに開けて、そこから外へというのが常態になってしまった。たいていは酔っ払って帰るので、どうしてもそうなる。雪は次々に降るから痕跡は残らない。めったにないことだが、あるとき夜中に”大“の方をもよおし、ついこの方法でやってしまった。春になって、校長先生の一家が帰ってきた。3人の子供たちが2階に上がってきて遊んでいるうちに、窓の外の庇の中ほどに、変なものがあるのに気づいた。なにしろ冷凍状態で冬を越したのだから、まさにそのままだった。私は丁度その冬に一時、部屋で飼っていた犬のせいにして難を逃れたのである。
 
当時学校では、だるまストーブを使っていたから、職員室はまことに居心地がよく、つい、定時制の授業が終る10時頃まで長居をしてしまうことがままあった。一歩外へ出ると雪がしんしんと降っているので、校門の向かいの居酒屋で、焼き鳥を肴に焼酎を2~3杯杯ひっかけて、下宿まで走って帰ると、体が温まって万年床へもぐりこんで小便に起きるまでぐっすり眠れるのである。ある時、居酒屋から百メートルほど走ったところで何かにけつまずいて転んだ。うっすらと雪を被った黒い物体が横たわっている。雪を払ってみると、なんとそれは、マントにくるまって眠り込んでいる我が校の校長であった。街一番の美人芸者が偉丈夫の校長に惚れているという噂で、そこで飲んでの帰りだったのだろうか。急いで学校にとって返し、小使いさんに来てもらって、90キロはある校長の巨体を二人で橇に乗せて、家まで運んだ。陸軍士官学校の教官であった校長は、戦後は絶対的平和主義者となり、若い教師の生意気な提案も一度だけは必ずやらせてくれる人で、私は心から尊敬していた。私の下宿の小学校の校長先生は、この校長が若い頃、水戸師範学校で教えた生徒で、校長を兄のごとく慕っていたので、私をタダ同然で下宿させてくれたのである。人間の運命とは本当に不思議なものだ。

その頃下宿の屋根には1メートル以上も雪が積もっていた。私が、雪下ろしをしようかと言うと、お祖母さんは、素人には無理だから息子(校長)が帰ってくるまで待ちなさいと許してくれない。雪下ろしを申し出たのは、安い下宿代への恩返しをするためというのはお祖母さんへのおためごかしで、夜中に酒が切れて目が覚めると、屋根全体が「ミシリ、ミシリ」と不気味な音をたてて、なかなか寝付けず寝不足になるので困るというのが本音だった。このままでは家が潰れるなどとお祖母さんを強引に説き伏せて、木製の平たいシャベルを持って屋根へ上がってみると、まわりは白一色でシーンと静まり返えっていた。雪が全ての音を吸い取ってしまうようである。庭は3メートルもの積雪の上に、前に屋根からおろした雪が重なって、2階の窓あたりまでせまっている。高所恐怖症の私もこれなら大丈夫とたかをくくったのが命取りになるところだった。庇から半分くらいまで除雪した時だ、調子に乗って口笛など吹いていると、屋根の上のほうに残っていた雪がどっと落ちてきて、アッと言う間に滑り台を滑るように急降下して転落した。脚からほとんど垂直の角度で雪の中に突っ込み、見上げると1メートル半くらい上の丸い穴から空が見えた。思わず“オーイ”と叫んでみたが、隣の織物工場は日曜日で休み、お祖母さんは耳も悪い、一番近い隣家まで30メートルはあるから、誰かが気づいてくれる可能性は全くなかった。雪が崩れてくれば一巻の終わりだ。しかし、私は助かった。どうやって? 木製シャベルを手放さなかったのが幸いだった。シャベルの先が届く範囲の雪を、少しずつ円周に沿って削り落とし、その上に乗って更に上の雪を削るという作業を繰り返し、30分くらいで首が穴の上に出た。後はまわりの雪を払って脱出したのである。お祖母さんは屋根の雪がすっかりなくなっているのを見て、大いに褒めてくれた。勿論落ちたことは言わなかった。(M)

英語語彙の学習(1)

Author: 土屋澄男

英語学習の最大の難関は語彙の習得にあります。単語は一つずつ覚えなければならない、それもできるだけたくさん—2000語、3000語、4000語、できれば5000語—覚えなければならない、という強迫観念に誰もが一度は取りつかれます。おまけに、どうして自分はこんなに記憶力が悪いのだろうか、という劣等感まで味わわされます。そういう経験のない人がもしあるとすれば幸いです。筆者もいやというほどそういう経験をしました。また、かつて教えた学生たちも例外なくそういう経験をしていました。「忘却とは忘れ去ることである」というテレビドラマの台詞がむかし流行りましたが、人間とは忘却から逃れられない存在のようです。それはおそらく、人間が生きていくためには忘却が必要だからでしょう。忘却装置が壊れたら人間は生きていけないかもしれません。そう考えると、忘れることは怖くなくなります。忘れることは当たり前なのですから。覚えては忘れ、忘れては覚えていくうちに、自分にとって真に必要なものだけが記憶に留まる。これが人間の記憶システムの特性です。「人間は忘却装置付きの記憶システムである」と言ったらよいかもしれません。

 忘却は英語の学習だけでなく、学校で学ぶすべての教科についても同じように起こるはずですが、英語の語彙の学習で特にそのことが痛感されるのには理由があります。第1に、単語の多くはソシュールの言う「恣意的な記号」ですから、ほとんどの単語は音と意味の間に何の関係もありません。とにかく理屈ぬきで覚えなくてはならない。ちょうど薬剤師が次々に製品化される薬の名前を覚えるようなものです。通常の人には容易に覚えられるものではありません。薬剤師は医薬品に関心が高く、それらを扱うことに生活がかかっており、生きがいを感じています。必死になってそれらの名前を記憶するにちがいありません。英語学習者も薬剤師に劣らぬ熱意と覚悟をもって英単語に立ち向かわなければ、たちまち脱落してしまいます。

 第2に、初期の英語学習で取り上げられる語彙が学習者の本当に知りたい語ではなく、英語の母語話者が幼いころに習得を済ませてしまうような、つまらない語彙が多いからです。ここで「つまらない」というのは、どうでもよいというのではなく、伝達内容の点で重要度が低いという意味です。したがって、ある年齢(母語の基本的習得が完了するころ)を過ぎると、そういう語彙の学習を長期に続けることが疎ましくなってきます。英語でもっとも頻度の高い語のほとんどは機能語で、the, of, andの3語で英文テキストの約10%を占めるといいます(the Birmingham corpusによる)。これらに続く50位までの語のほとんども機能語で、英文テキストの約40%を占めます。それらの語は頻度が高いのでいやでも最初に学習しなければならなりません。ここで躓くと、それ以後の学習が進めなくなります。中学校1年生、2年生程度の英語が重要なのは、それらの機能語を学んで英文の構造に慣れることが必須だからです。ここで躓いてしまった人は、英語がますます分からなくなり、結局give upするしかなくなります。大学生の「リメディアル教育」というのが最近の英語教育誌に特集されていましたが、中学校レベルで躓いた学生たちにそれら機能語の再学習から始めなくてはならないというのですから、先生も学生もさぞたいへんでしょう。

 次に内容語の学習ですが、教科書などに出てくる語彙には新味がなく、知識欲旺盛な中学生や高校生に学習意欲をそそるものが少ないのです。中学校の教科書の初めによく出てくるpen, desk, notebookなど、中学生の知りたい語とは言えません。中学生ともなれば母語の基本をほぼ習得していますから、いまさら幼児に戻って言語習得をやり直すことに心理的な抵抗があります(今年の4月から小学校5年生、6年生に「英語活動」が始まりますが似たような状況でしよう)。学習初期の数週間は物珍しさからついていくでしょうが、いつまでも身近な人や物を題材にしたトピックで満足できるとは思えません。学習者の本当に学びたい語彙がいつまでも出てこないからです。もう一度赤ん坊時代に逆戻りさせられた感じになる—これは成人の英語学習者のほとんどが経験させられるものです。

 では語彙に関する良い学習法があるでしょうか。そんなにうまい方法があるとは思えません。が、一つ言えることは、学校の先生は生徒に覚えろと叱咤激励することはできますが、覚えるのは生徒であり、先生がいくら頑張っても駄目だということです。学習法の問題を解くカギは生徒にあります。学習者が語彙の学習をどうとらえるか(どう考え、どう理解するか)にあるように思います。(To be continued.)