Archive for 2月 5th, 2011

< 大雪の想い出 >     

                             松山 薫

 この冬日本海側は、記録的な大雪で大変なようだが、私が栃尾で教師をしていた2年目の冬も豪雪だった。私が下宿していたのは町外れの、小学校の校長先生のお宅だったが、先生は、町から数キロも離れた学校に家族と一緒に赴任していて、たまにしか帰宅せず、家には70を超えた脚の悪いお祖母さんが残されており、私はいわば用心棒として、2階3部屋を月千円で貸りていたのである。トイレは階段を下り、廊下をぐるっと廻った裏側にあり、凍てつく夜中に小便に立つのはまことに苦痛であった。それで、いつのまにか、2階の雨戸を細めに開けて、そこから外へというのが常態になってしまった。たいていは酔っ払って帰るので、どうしてもそうなる。雪は次々に降るから痕跡は残らない。めったにないことだが、あるとき夜中に”大“の方をもよおし、ついこの方法でやってしまった。春になって、校長先生の一家が帰ってきた。3人の子供たちが2階に上がってきて遊んでいるうちに、窓の外の庇の中ほどに、変なものがあるのに気づいた。なにしろ冷凍状態で冬を越したのだから、まさにそのままだった。私は丁度その冬に一時、部屋で飼っていた犬のせいにして難を逃れたのである。
 
当時学校では、だるまストーブを使っていたから、職員室はまことに居心地がよく、つい、定時制の授業が終る10時頃まで長居をしてしまうことがままあった。一歩外へ出ると雪がしんしんと降っているので、校門の向かいの居酒屋で、焼き鳥を肴に焼酎を2~3杯杯ひっかけて、下宿まで走って帰ると、体が温まって万年床へもぐりこんで小便に起きるまでぐっすり眠れるのである。ある時、居酒屋から百メートルほど走ったところで何かにけつまずいて転んだ。うっすらと雪を被った黒い物体が横たわっている。雪を払ってみると、なんとそれは、マントにくるまって眠り込んでいる我が校の校長であった。街一番の美人芸者が偉丈夫の校長に惚れているという噂で、そこで飲んでの帰りだったのだろうか。急いで学校にとって返し、小使いさんに来てもらって、90キロはある校長の巨体を二人で橇に乗せて、家まで運んだ。陸軍士官学校の教官であった校長は、戦後は絶対的平和主義者となり、若い教師の生意気な提案も一度だけは必ずやらせてくれる人で、私は心から尊敬していた。私の下宿の小学校の校長先生は、この校長が若い頃、水戸師範学校で教えた生徒で、校長を兄のごとく慕っていたので、私をタダ同然で下宿させてくれたのである。人間の運命とは本当に不思議なものだ。

その頃下宿の屋根には1メートル以上も雪が積もっていた。私が、雪下ろしをしようかと言うと、お祖母さんは、素人には無理だから息子(校長)が帰ってくるまで待ちなさいと許してくれない。雪下ろしを申し出たのは、安い下宿代への恩返しをするためというのはお祖母さんへのおためごかしで、夜中に酒が切れて目が覚めると、屋根全体が「ミシリ、ミシリ」と不気味な音をたてて、なかなか寝付けず寝不足になるので困るというのが本音だった。このままでは家が潰れるなどとお祖母さんを強引に説き伏せて、木製の平たいシャベルを持って屋根へ上がってみると、まわりは白一色でシーンと静まり返えっていた。雪が全ての音を吸い取ってしまうようである。庭は3メートルもの積雪の上に、前に屋根からおろした雪が重なって、2階の窓あたりまでせまっている。高所恐怖症の私もこれなら大丈夫とたかをくくったのが命取りになるところだった。庇から半分くらいまで除雪した時だ、調子に乗って口笛など吹いていると、屋根の上のほうに残っていた雪がどっと落ちてきて、アッと言う間に滑り台を滑るように急降下して転落した。脚からほとんど垂直の角度で雪の中に突っ込み、見上げると1メートル半くらい上の丸い穴から空が見えた。思わず“オーイ”と叫んでみたが、隣の織物工場は日曜日で休み、お祖母さんは耳も悪い、一番近い隣家まで30メートルはあるから、誰かが気づいてくれる可能性は全くなかった。雪が崩れてくれば一巻の終わりだ。しかし、私は助かった。どうやって? 木製シャベルを手放さなかったのが幸いだった。シャベルの先が届く範囲の雪を、少しずつ円周に沿って削り落とし、その上に乗って更に上の雪を削るという作業を繰り返し、30分くらいで首が穴の上に出た。後はまわりの雪を払って脱出したのである。お祖母さんは屋根の雪がすっかりなくなっているのを見て、大いに褒めてくれた。勿論落ちたことは言わなかった。(M)