Archive for 1月 31st, 2013

知識の発達が遺伝的に決定づけられているのではなく、個体と環境との相互作用を通して個体の中に形成される認識構造の変化によって特徴づけられることは、20世紀の発達心理学者ピアジェ(Jean Piaget 1896-1980)によって明らかにされました。彼は知識とは何かという認識の根本問題から出発し、それがどんな法則に基づいて変化し、発展していくかを実証的に研究したのでした。彼の研究の中でも特に、環境が遺伝子に働きかけて変化をもたらすのではなく、個体が環境に働きかけて変化をもたらすという点に注目したいと思います。

 ピアジェ以前の心理学では、知能の発達を規定するのは、遺伝的要因、自然的環境の影響、社会的環境の影響という3つの相互作用によると考えられていました。そのこと自体は誤りではありませんが、ピアジェは、子どもの認識の発達を説明するにはそれだけでは不充分だと考えました。それら3つの要因を独自のやり方で統合する、もう一つの重要な要因があると考えたのです。彼はそれを「均衡」(equilibrium)と名づけました。個体は外界に対して開かれた体制であって、外からの影響を受動的に受け取るだけではなく、むしろ積極的に働きかける存在です。そして内と外との相互作用を通して、自己の中に安定した状態、すなわち均衡を作り出しています。しかしそれは、やがて新しい環境への働きかけの中で再び新たな活動が開始され、次の均衡が求められます。こうして子どもの認識の発達は、その構造が斬新的に均衡を形成していくプロセスだというわけです。

 この考え方を私たちの英語学習に当てはめてみましょう。新しい言語の学習を始めたとき、私たちは、自分のすでに獲得している言語知識を大きく変化させる必要を感じます。このことを ‘wear’ という動詞を例に取って考えてみましょう。あなたが “Would you like to wear a suit?” という問いを耳にして(またはそれを目にして)、 ‘wear a suit’ が「スーツを着る」の意味であると知ったとします。しかしその後、下の例のように、あなたはこの動詞がいろいろな目的語を取ることを知ります。そしてそのつど ‘wear’ の意味を確認し、この語の使用範囲を修正し、拡大することが必要になります。

to wear an apron ( a hat, a moustache, a ribbon, a ring, jeans, socks, shoes, sunglasses, tattoos, etc.)

幼い子どもたちは、おそらく、耳から入るこのような例に出合ってその意味を推定し、経験を積むことによって ‘wear’ という動詞の意味とその使用範囲をしだいに確定していくのでしょう。その途中のプロセスは、まさにピアジェの言う「均衡」の要因によって支えられているのに違いありません。つまり、子どもは新しい例に出合うごとに、 ‘wear’ について自分が理解している仮説的な定義を修正する必要を感じます。そして、そのようにして生じる不安定な心的状態から抜け出すために、その仮説を更新することによって新たな均衡を創り出すのです。子どもたちは自然な言語習得環境の中で、そのような心的操作をごく当たり前のこととして行っているのです。

 しかし学校で学ぶ成人の英語クラスでは、学習者はすでに母語である日本語を知っています。ですから ‘wear a suit’ が「スーツを着る」であるのに対して、 ‘wear an apron’ は「エプロンを着る」ではおかしいことが分かります。そこで、なぜおかしいかを説明する必要を感じます。そしてそれが単に表現の違いであることを知ります。つまり、スーツとエプロンは共に身に着ける衣類の一種ですが、英語ではどちらの場合にも同じ動詞が使えるのに対して、日本語では別の表現を取ることが要求されます。しかし子どもと同様に、 ‘wear’ がいろいろな目的語を取りうることを知るまでには、長期にわたる多くの言語経験を必要とします。おそらく多くの成人学習者は、この動詞の意味範囲を中途半端な理解で終わることでしょう。成人は、四六時中ことばの学習に浸っている子どもにはとうてい太刀打ちできません。しかし教室での学習は、子どもの自然学習よりも有利です。 ‘wear’ は「衣類や装飾品などを一時的に身に着ける」という意味であることを教師から教わり、整理された例を示されてこの動詞の使い方を知り、短期間のうちにそれに習熟することができるからです。

 しかしそこには重大な落とし穴があります。学校ではそのような知識をまとめて学習して記憶することができるのがメリットですが、子どもが長い期間をかけて最終的な均衡に至る知識の形成プロセスが、そこでは抜け落ちてしまうからです。自分の知識の不足に気づいて、自分自身の手で現在の知識構造を均衡に向かって変革するプロセス—これこそが知的学習の真髄だと筆者は考えています。それは知能検査で測定する知能とは明らかに異なる種類のものです。(To be continued.)