Archive for 2月 9th, 2013

(129)英語との付き合い-45

<日本人英語学習者の考え> 7

7.日本語学習との関係。基本的問題

● アンケケート回答者の選択

7.日本語あるいは日本語学習との関係をどう考えるか

* 英語を日本語に訳すとき、後ろから前に戻りながら訳すという人が多いですね。私は前から頭ごなしにやっていったほうがいいと思っています。頭ごなしにやると、「ここは置いといて」という留保事項が多くなるでしょう。すると、その留保事項を頭にメモする能力が必要になってくる。あるいはカッコに入れて数学の式のようにしてしまう。「まずはこうである」、その他の付属部分を入れて、「次はこうなる」というように予測しながら次を読んでいく。そういうふうに頭から訳すことと、日本語で論理的に分解することは矛盾しません。...後ろから訳す場合、それにとらわれて、肝心な主語や動詞を見逃して誤訳するケースもありますからね。...やっぱり文の構造、骨の部分を見なくてはダメです。...どれがこの文章の骨かを見抜くのは論理能力です。(1)
* カナダの言語学者カミンズは、母語と第二言語との間には、相互依存する共有の部分があるのではないかというか仮説を立てた。母語と第二言語とは、音声構造・文法構造・表記法といった表層面は異なっている。しかし、論理的に分析し、類推比較し、まとめる力といった抽象的な思考に必要な能力、文章構造や文章の流れをつかむ能力といった認知能力にかかわる深層面では共有する部分があるという。この仮説が正しければ、第二言語を学習する際に、母語での認知能力が大いに役立つということになる。(7)
* 「英語と日本語を1対1で対応させることはできない」という事実は、最初に英語を習い始めた中学生にはわからない。勉強を進めるにしたがって、多くの学生は日本語と英語は違うと気がつく。しかし、いつになっても気づかない学生もいる。(3)
* グローバル化した社会において多くの人々にとって必要なのは、ネイティヴ並みの英語力ではなく、結果的に正しく通じる英語力、さらにその裏づけとなる「中身」であることが理解できたと思う。私たちが英語を母語とする国々の人々と比べて決定的に不足しているのは、論理的に自分の考えを組み立て、説明する力だ。英語力以前に、母語である日本語において、論理的思考力の訓練がなされていないことが、外国人とのコミュニケーションを行う際の大きな壁となっている。(7)
* 日本語と英語の構造的な差異もわきまえず、日本の風土も理解しない欧米の学者が開発した音声中心の「実践的な」言葉を奨励した挙句,ビジン英語話者を大量生産し、その一方で表現のニュアンスを生かして政治や文化を語ったり、高度な議論を展開するには使えない、そんな英語を学習することが「科学的」とはとても思えないのです。...そんな教育よりも、当面は実用的ではないにしても、個々人が必要に応じて学習を積み上げていけるように基礎力を与えることのほうが、よほど重要ではないでしょうか。逆に言えば、学校で出来るのはそこまでなのです。(1)
* 言語が第一義的にコミュニケーションの道具であるなどというのは自明の理であり、日本の英語受容史上、それを否定した英語教育が行われたためしはない。ただ、日本語と英語がそれぞれまったく違った語族に属し、音韻体系も統語体系も、さらにはそれを用いる時の文化的、理念的前提も違う以上、日本人が英語を自在に使いこなすまでには相当な修練を積まなくてはならず、その過程でどうしても必要となる文法・読解学習が一見機械的印象を与えるために、そしてまた多くの日本人の英語学習がその段階で止まってしまうために、いかにも今までの英語教育が英語の伝達機能を軽視してきたかのように見えてしまうだけなのだ。(1)
* 日本人が英語を話せないのは、英語力以前に、欧米人が培ってきた思考スタイルを身につけていないことが大きく影響していると思わざるをえない。(7)
* 本書の訴えんとするところは、ごく簡単に要約すれば、国語教育を充実させよ、英会話ごっこにも似た低劣な早期英語教育を止めさせよ,型の訓練を中心とした骨太の教育を実現させよということになろうか。(1)

8.言語についての基本的な問題

* 中学校で卒業時までに教えるべき単語の数は、学習指導要領の変更により、1000から900に減りました。その900にしても、どの単語を教えるかの基準は決まっておらず、現実には単語を覚えさせることはさほど熱心に行われていないと思いますね。...英語において単語の占める比重は非常に高く、英語でものを考えるときの土台になるはずです。(1)
* 最近の心理言語学の知見によれば、われわれが言語を話すときには、言おうとする内容に意識を集中し、その内容を表現するキーワードを記憶貯蔵庫から引き出し,その語を中心にセンテンスを組み立てていくというプロセスをとる。(4)
* 日本語の「コミュニケーション能力」は、英語の‘ communicative competence ‘と同義と考えてよいであろう。これに関するカナーレイとスェイン研究では、次の4つの下位能力を認めている。(1)文法的能力:語彙,統語、音韻などの言語形式を操作する能力である。(2)社会言語学的能力:言語が使われる社会的文脈を理解し,その場にふさわしい言い方で表現できる能力(3)談話的能力:一連の発話や文章をまとまりのあるものとして理解し、与えられた文脈において一貫した発話や文章を構成する能力(4)方略的能力:自分の言語技能の不完全さを補うために、いろいろなストラテジーを用いてコミュニケーションを続行する能力。(4)
* 語彙はどれだけ必要か: Voice of America のニューズ番組SPECIAL ENGLISH NEWSは、使用単語を1500に制限している。従ってこれだけの語彙でも実用になるわけだ。逆に言えば、これ以下ではどうにもならないとも言えるだろう。...三省堂の「新コンサイス英和辞典」は中学校で習得すべき語は、約2000語、高校は約6000語としている。...大学受験で必要な語数は約5000語程度と言われる。英検では必要語彙を2級(高校卒業程度)で5100語、1級(大学上級)で10000語~15000語としている。...ネイティブ・スピーカーの語彙は5万語程度と言われる。ただし、頻繁に使う語彙は、専門職でも5000語程度と言われる。(3)
* 英語を聞き取るためには、「おおよその内容がわかっている」ことが必要だ。知らない単語は聞いてもわからない。これは当たり前のことだが、内容そのものも、概略がわかっているから聞けるのである。逆に言えば、まったく新しい内容はわからない。...人間はばらばらの個別部分を積み上げて全体を理解するのではなく、まず全体に対する大まかな把握があり、そこに位置づけることによって、部分を理解するのである。外国語の場合にもまったく同じことが言える。(3)
* 言語学は、人間の言語能力の根底にある知識を「語彙」「統語」「音韻」「意味」などの分野に区分けして研究し、それぞれの分野でかなりの言語的事実を明らかにはしている。しかし、人間がそのような知識をどのようにして獲得していくかという習得原理やその使用プロセスには諸説があり、解明から程遠い状態にある。(4)

● 私の見解

7.日本語及び日本語学習との関係 8.基本的な問題
 
「ゆとりの教育」という考え方のもとで、小・中学校に「総合的学習の時間」が設けられ、小学校ではその時間の一部を英語の学習にあてているようです。「ゆとりの教育」にも「総合学習」にも私は考え方としては賛成です。しかし、現在の日本の社会のありようを考えると、それらが目指す目的が本当に達成されるかどうか危うさを感じざるをえません。先ごろ発表された経済協力開発機構(OECD)の世界41カ国を対象にした学力テストでは、日本の子供達の、文章を読み、論理的に考え、表現する力が、4年前のテストより落ちていることが指摘されました。するとたちまち、“総合学習”は失敗した、授業時間を増やせ、週休5日制をやめよ、英語より国語が先だ“といった性急な意見が出てきました。このあと発表された、国際教育到達度評価学会のテスト結果では、理科や数学の点数も10年前の調査の時より下がっています。つまり、日本の子供達の学力は総体的に低下しているのであり、その原因は社会の状況に深く根ざしているのであって、授業時間を増やすなどの対症療法だけで解決できるものではないと思われます。社会状況のなかでもっとも心配されるのは、てっとり早く成果を上げようとする安易な考え方の蔓延です。それは、バブル経済時代に、本業を忘れ,土地ころがしでeasy moneyを得ることに狂奔した後遺症でしょう。つまり、大道を忘れた”つけ“です。バブル崩壊後の失われた10年では、皆が自信を失いました。これも大道を歩かずに失敗したあとで必然的に起きる現象です。藁をもつかむ思いですがったのが、アメリカ式競争主義でした。その結果富の配分の2極分化が起こりました。

年収300万円以下の所帯が既に40%に達しています。いわゆる一流私立校に通うことの出来る子供と,塾にも行けない子供の学力格差は開くばかりです。前述のOECDのテスト結果でも、日本には一番低いレベルの成績の子供が多く、これが全体の成績を押し下げていることが指摘されています。こうした状況を根本的に変えないと、子供の学力を本当に底上げすることはできないと私は思います。

教育行政においても、学校現場の地道な取り組みや試行錯誤の結果を積み上げて、間違いのない道を見出していくというよりも、管理強化による上意下達でことを運ぼうとする姿勢がうかがわれます。こういう風潮の中では、教師自身が深く考え、悩み、互いに意見を出し合って、大道を歩む努力が薄れていくのではないか。英語教育で言えば、“中学校の教員は、指導技術に、高校の教員は英語の語法に関心が強く、前提になる「どういう英語を教えるべきか」「英語教育はどうあるべきか」といった問題に関心のあるものが少ない”という指摘があります。(浅野博氏の論文「英語の脱英米化と英語教科書」中央教育研究所 中研紀要NO.2)。基礎学力を、自ら考え、問題を解決していく力と考えるならば、総合学習こそが最善の方法ではないのかと私は考えますし、教育を百年の大計とするならば、目先の成果だけでなく、ゆるぎない大道を見出す努力と、それを歩む覚悟が求められると思います。

小学校の英語教育については,社会の風潮と関連して、もうひとつ心配なことがあります。とくに、英語を教科として導入した場合い指導する側が、現状のような状態であると、デジタル・ディバイドならぬイングリッシュ・ディバイドが生じかねないことです。子どもの教育が、親の資力によって決まるという現状が、英語についても追認され、入り口における平等という民主主義の根本がさらに後退することになりまねません。英語が日本の社会において重要な役割を果たすようになればなるほど、社会のひずみは大きくなります。それで、教科としての英語は、小,中,高を通じて全て選択制にせよという議論もあるようですが、私はそうは思いません。義務教育である中学校では、全員に英語を必修させるべきだと考えます。その後は英語を止めてもよい。中学校できちんと基本を学習していれば、自分の人生で英語が必要になったとき、再び始めても十分に間に合います。そうゆう基礎だけはきちんと作ってやることが義務教育の目的ではないでしょうか。茅ヶ崎方式を始めて25年、現状ではそれもほとんど出来ていないことを痛感しています。それが、BOOK−0「0からの英対話」を作らねばならないと考えた理由のひとつです。

次に、日本語と英語の違いについてふれます。(有)茅ヶ崎方式英語会には、協力校などから、茅ヶ崎方式英語教本の用例に付けられた日本語訳は、“わかりづらい”、“AWKWARDだ”、“日本文になっていない”などの苦情が多数寄せられているという報告を受けました。これについては、英語会を通じて私の考えを詳しくお知らせしましたが、その中で、私が10年間、対話クラス(C−4)で英文作成を担当したときの体験談として、「日本文に引きずられて、論理的に意味を成さない英文を書く人が多い」ことを指摘しました。じつは、これは、私がNHK国際局にいたときの体験でもありました。自分で取材した原稿の場合そういうことはないのですが、国内放送の記者が取材した原稿や、共同通信の記者の原稿を英語のニュースにするときに、陥りやすい「わな」でした。日本語の原稿を英語ニュースにするときは、原稿を2,3度読み返したら、あとは原稿を見ずに、自分の頭で整理して英文ニュースにする、書き終わってから、元の原稿を見てチェックするというのが鉄則ですが、それでも、なお「わな」にはまることがありました。そうすると、英語のネイティブ・スピーカーであるリライターは、何を言っているのかわからないわけで、時にはお互いに、「この野郎、頭がおかしいんじゃないか」と喧嘩になることもあるわけです。年間何百本という英文ニュースを書くプロでさえそうなのですから、対話クラスの人達が、「わな」にはまるのは無理もない話で、「わな」にはまっているよと注意されても、まだ理解できないという事態も出てきます。学習会の場でなら、わかるまで説明することもできますが、教本では不可能です。それで、教本では、論理を優先して、(つまり英文のCHUNKINGを重視して)日本文としての完全性を犠牲にしました。本当は両立できればよいのですが、私の能力と、持ち時間の範囲ではムリだとあきらめたのです。

ところで、つい最近、旧友の浅野博氏から、氏の編集した ADVANCED FAVARITE JAPANESE−ENGLISH DICTIONARY をおくってもらい、読んでみて、「うーん」と唸りました。私があきらめたところを、埋めようという努力がされていたのです。見出し語に続く用例に「発想指示」という、これまで見たことのない項目があり、たとえば、峠という見出し語の、“仕事はやっと峠を越した。“という用例に「発想指示」として、”最も難しい部分を過ぎた“とあって、At last, I have gotten past the most difficult part of the work. という英文用例が載っています。日本語→英語の中で、最も難しいと思われる部分について、こういう地道な努力がなされていることを知って、本当に嬉しく思いました。 (M)