Archive for 2月 23rd, 2015

近年になって、英語によるコミュニケーション能力を獲得することが私たち日本人の英語を学ぶ主要な目的だと考えられるようになりました。「英語を6年、8年やって、それで英語が使えないなんて、学校の英語教育はいったい何をやっているのだ!」という怒りの声があちこちから上がりました。その言い分がわからないわけではありません。社会は英語でコミュニケーションができる多くの人材を必要としてきたからです。しかし、英語教育の目的が英語によるコミュニケーション能力の育成にあるというのは、自明のことでしょうか。

このことに関連する近年の議論の中で特に注目すべきものは、いわゆる「平泉試案」をめぐって当時の参議院議員・平泉渉と上智大学教授・渡部昇一との間でなされた論争です。これは雑誌『諸君』を媒体として、いわば公開でなされた論争でしたので、多くの人々の目に触れるところとなり、一般市民的なレベルでの論争にまで発展しました。この論争については、これまで多くの論評がなされました。最近も、この論争を踏まえて英語目的論を展開している鳥飼玖美子の著作が新たに加えられました(注1)。しかしそこでも、「なんで英語をやるのか」という根源的な問いに対する明確な答えは提出されていません。

何のために英語を学ぶのか、また英語を学ぶ価値は何なのかついては、古くからさまざまな議論がなされてきました。『「なんで英語やるの?」の戦後史』(寺沢拓敬著)という本が昨年出版されました(注2)。「教養か実用か」の議論は長いあいだ続いていて、現在も続いています。そもそも「なぜ英語を学ぶのか」という問いは、「(私たちは)なぜ生きているのか」という問いに似て、万人が「そうだ」という共通の答えを出すことが困難な問いです。その答えは、個々の人間が生涯を通じて自分自身に問いかけ続けていくもののように思われます。

しかしこれまでになされた議論の多くは、国民教育という視点から、日本人一般が英語を学ぶ価値は何かという、鳥瞰図的な議論でした。したがって、多くの場合、それらは学習の主体である個人の学びの視点を欠いていたように思います。たとえば、平泉試案には「わが国の国勢的地位、国情にかんがみ、わが国民の約5%が、外国語、主として英語の実際的能力をもつことがのぞましい」という一文がありますから、この提案が国の文教行政という観点からなされていることは明らかです。その提案に続く議論も、ほとんどそういう観点からなされました。

私たちの以下の議論は、それとは違い、子どもから高齢者に至るさまざまな年齢の英語学習者が、学びの途上で感じる興味や価値についてです。いくらグローバルな世界になってきたからと言って、すべての日本人が英語によるコミュニケーション能力を必要とするわけではありません。日本で生活するかぎり、一般の人々はそれほど高度な英語の運用力を必要とはしません。誰もが英語をいくらか知っていることは必要でしょう。しかし必要のレベルは、個人によって大きく異なっています。それは一律にあるレベルに達していないといけないという固定したものではありません。そういうわけで、英語を学ぶ目的や価値は決して一様ではなく、きわめて多様です。一人ひとり違ってよいのです。

現在、日々英語を使って仕事をしている人、あるいは英語をしばしば必要とする人は多いでしょう。グローバルに活躍している外交官、政治家、実業家、アーティストなどは常に英語を必要としています。しかしそういう人たちも、学びの過程では、英語を学ぶさまざまな価値を知ったに違いありません。なぜなら、英語を自由に使えるようになるためには、長期にわたる学びの継続を必要とするからです。誰もが初歩から始めます。「コミュニケーション能力」の獲得は遠い先の目標ですから、それだけで学びを支え続けることはできません。

では英語の学習者は学習過程でどんな学びの価値を見出すでしょうか。人が学びに価値を見出すためには、最初に「気づき」があり、学びの対象に興味をもつことが重要です。まずは項目だけを挙げ、次回からこれらの項目を順次見ていくことにします。(ただし項目の順序は変更されることがあります。)

(1)英語という言語の形式(音韻、書記、文構造など)に興味をもつ。(2)英語という言語の意味構造(語彙、成句など)に興味をもつ。(3)英語を通して言語の働きに興味をもつ。(4)英語を通して他の人々の文化(生き方、考え方など)に興味をもつ。(5)英語を通して人々との交わりに興味をもつ。(6)英語を通して日本語や日本文化を客観的に見ることに興味をもつ。(7)英語を使って自分の考えを他の人々に知ってもらうことに興味をもつ。

(注1)鳥飼玖美子『英語教育論争から考える』(みすず書房2014)は、「平泉試案」をめぐる平泉渉と渡部昇一との論争を詳しく紹介した後で、著者自身の英語教育論を展開している。著者はこの本をまとめるにあたって、論争の当事者である平泉渉・渡部昇一の両者に直接インタビューを行ったほか、当時の文部省関係者へのインタビューによってそれを傍証しようとしている。この論争に興味のある読者には大いに参考になるだろう。著者は本書の後半で、これからのグローバル市民に求められる能力は「異文化コミュニケーション能力」であり、それは「相手に配慮しつつ、自らの考えを論理的に主張し、折り合うことのできる能力」だと述べている。しかしこの能力を現在の英語教育の枠内で実践することには限界があると言う。そのためには、国語教育の抜本的改革を必要としているからである。

(注2)寺沢拓敬著『「なんで英語やるの?」の戦後史—<国民教育>としての英語、その伝統の成立過程』(研究社2014)は、国民教育、すなわち義務教育である中学校教育における「外国語(英語)」が、必修科目として位置づけられるようになった経過を詳述している。周知のように、わが国では敗戦後の1947年に新しい学制が敷かれ、小学校から中学校までが義務教育となり、中学校の新しい教育課程には「英語」が選択科目として設けられた。この時点で、すべての国民が中学校から英語を学ぶことになったわけである。しかしこの科目は20世紀の終わりまで選択科目のままに据え置かれ、2002年になってようやく必修科目に変更された。寺沢のこの本は、実質的に必修科目であった「英語」がなぜ55年ものあいだ選択科目に留め置かれたのか、またそれが必修科目として認定されるまでにどのような経緯があったのかを、教育社会学的視点から詳細に分析したものである。この本の一部に、「平泉試案」をめぐる論争に触れた個所がある。この論争が中学校における英語の必修化に及ぼした影響について、著者は次のように述べている。「新学制発足時には、必要な人間だけが必要に応じて学ぶべきだとされた外国語科が、1970年代の平泉・渡部論争では、ごく初歩的な次元ではあるものの、「すべての『国民』が学ぶべきもの」へ進展したと言える。さらに言えば、この時期に英語教育の<国民教育>の基礎づけが一応の完成を見たという可能性さえ示唆される。」(同書84頁)