Archive for 12月 4th, 2015

これまで3回にわたって「協働」というテーマで議論を展開してきました。読者からいただいたコメントの中に、かつて筆者が大学にいたときの教え子で、高校で現在このテーマに関する実践研究を行っているA君からのメールがありました。彼は自分自身や仲間の指導経験から、ペアやグループ活動が成功する条件として次の3点を挙げています。1)日ごろの授業と指導の在り方、2)教師と生徒の信頼感、3)クラスの生徒同士の人間関係。筆者はなるほどと思いました。これらは経験者が誰しも感じるであろうと思われる大事なポイントを捉えていると思いました。以下にこれら3点を踏まえて考察を進めます。

まず「日ごろの授業と指導の在り方」について。今まで伝統的な一斉授業で教えられてきた授業が、ある日突然グループ活動に切り替わるようなことは普通にはないでしょう。しかしあり得ないことではありません。筆者はかつて(1970年代)そういう授業を突然試みたことがあります。風邪のため声が出せなかったのです。それは大学の英文科の講読の授業で、ひたすらテキスト(小説)を読むという授業でした。その進め方は全文を日本語に訳すというのではなく、あらかじめ準備しておくように伝えておいた学生に一区切り朗読してもらい、その個所の文章の意味や語句の使い方についていくつかの問いを発して学生たちと問答し、ストーリーの流れの中で重要と思われる個所を取り上げて翻訳するというものでした。50人くらいのクラスだったので12組ほどのグループがその場で作られました。その記録は残っていませんが、大部分のグループは熱心に学びを進めていたと思います。多くのグループが採用した活動の進め方は、筆者の観察した限りでは、ふだんの授業の進め方にほぼ従っていました。

それは英文科の大学生の「講読」というかなり特殊な授業でしたので何とかなったのかもしれません。「テキスト(小説やエッセイなど)を読んでその内容を理解する」というごく限られた目的の授業と、「話すこと・書くこと」を含めた四技能の基礎を作るという目的の中学・高校の授業とでは大きく異なります。現在の英語の授業は、ただテキストが読めればよいというのではなく、理解した言語材料を利用して自分の考えを英語で表現し、他の人たちと英語で話し合うところまで発展するように求められています。どのようにしたらそのような授業ができるのか――それが従前の一斉授業では対処できない、新しい教育の課題となっているわけです(注)

最初に考えられることは、教師による一斉授業を理解中心の活動と位置づけ、そのあとのグループ学習で運用演習に集中させるという授業計画です。筆者は正確な資料を持っていませんが、これが最近各地で行われている協働(協同、協調など)の名で行われる授業の基本になっているようです。しかしその場合でも、一斉授業ではほとんど日本語を用い、その後のグループ学習で英語の使用に切り替えるというのではうまくいかないでしょう。生徒が英語を使って協働的な学びを進めるためには、理解を中心に展開する一斉授業においても、教師と生徒が気楽に英語を使うことのできる環境を整えることが重要です。少なくとも、教師はそこで運用のモデルをいくつか与え、教師と生徒の間で英語のやり取りを頻繁に行うことが必須です。こうした準備があってはじめて、生徒同士の学びの形態へとスムーズに移行させることができるのです。

次に「教師と生徒の信頼感」について。グループ学習が成功するためには、まず教師が生徒を学びの主体として尊重し、信頼することが重要です。クラスの生徒はみな学びたいのです。勉強が嫌いだと言う生徒はたくさんいますが、多くの場合それは口先だけであって、本心は学びたいのです。少しでも分かるようになりたいのです。教師が「この連中は勉強嫌いのバカ者だ」と心の中で軽蔑していては、生徒が教師を信用するはずがありません。相互に相手を尊重し合うという人間としての信頼関係が成立していなければ、この形態の授業は決して成功しないでしょう。

しかし、そういう信頼関係に問題はないと考えていても、これまでもっぱら一斉授業で行ってきた先生方の多くは、グループによる学習形態を授業に採用することに不安を感じるのではないかと思います。第1に、いったん生徒に任せたら、そこで行われる活動は教師のコントロールがきかなくなるという不安です。失敗したらそれにどう対処してよいか分からないという不安もあるでしょう。第2に、そもそも生徒が互いに学び合うということ自体が難しいのではないかという不安です。それは、生徒というのは互いにライバルであり、決して協力し合う関係にはないという認識から来ています。しかしその認識は根本的に間違っています。グループ学習を実行に移すためには、生徒はすべて心の深いところで痛切な学びの欲求を持っており、クラスの生徒は互いに学び合うもの、切磋琢磨するものだという確固たる信念が教師の側にあり、常々そのようなことを念頭に置いて指導することが重要なのです。

ここで一つつけ加えますが、授業中に英語を学ぶのは、教師ではなく生徒です。教師も学ぶ必要はありますが、その学びは生徒のそれとは異なります。生徒は教科内容の学びに集中し、教師は生徒が何をしているのかを注意深く見守るのです。よく見て、どのような指導を行うべきかを考えるのです。そういうわけで、生徒の学びを第一に考えるならば、教師中心のプレゼンテーションはあくまでも生徒の学びの準備に過ぎません。以前、筆者はいろいろな機会に英語の授業を見ました。しかし多くの授業において、必死になって学んでいるのは教師であって生徒ではないのです。教師は生徒を見ずに自分の英語に集中し、生徒は先生の奮闘ぶりを外野席から眺めているという感じです。これではいけません。もう一度言いますが、授業で英語を学ぶのは生徒であって教師ではないのです。教師の学びは生徒の見えないところでするものです。

最後に「生徒同士の人間関係」が残っています。しかしこれはグループ活動をスムーズに進めるために重要な問題ではありますが、英語科一人の教師の努力ではどうにもなりません。生徒たちが互いに切磋琢磨して学び合う同士であることを徹底して指導することは、英語科だけでなく、全教科で取り組むべき共通の課題だからです。この点についてはいずれ稿を改めて論じるつもりです。

(注)中学・高校における英語授業のすべてが四技能の総合的学習である必要はなく、時には「テキストの理解」を中心とした授業も行われるはずであり、それを目的としたグループ活動もあってよいはずです。そこでは、それぞれのグループのメンバーがが互いに協力しながらテキストを読み進めることになります。そのようなグループ活動の進め方についての研究も、現場において今後さかんになされることを期待します。しかし前回(2009年3月)の学習指導要領改訂で、高校の外国語科目から「リーディング」が削除されました。この改訂によって、現場における「リーディング」に関する指導研究が低調になるのではないかと心配です。