Archive for 9月 30th, 2010

外国語学習に成功するためには、私たちは自分の持っているすべての認知力を動員する必要があると、前回の「メタ認知について」の冒頭で書きました。それは「言うに易く行なうは難し」だと思われた方も多いでしょう。その通りです。たといメタ認知的能力や技能の重要性が理解できたとしても、実際の学習場面で使えなければ何にもなりません。そこで、認知力をフルに利用するためにはもう一つ重要なものがあります。それは学習者の内側からほとばしり出る「情熱」(パッション)です。従来これは「動機づけ」という言葉を使って議論されてきました。そこでは「統合的動機づけvs. 道具的動機づけ」や「内発的動機づけvs. 外発的動機づけ」などの用語が飛び交いました。もちろん、そういう議論から動機づけのさまざまな面が明らかになりました。しかし私は、そこには何か本質的な議論が抜け落ちているように感じていました。つまり、動機づけを認知力とは別の領域の情緒や情意の問題にしてしまう違和感です。ですから、動機づけは常に認知の脇役の地位しか与えられていないのでした。しかし最近になって、動機づけの中心は認知を支える根源的エネルギーの問題であることに私は気づきました。それは人の認知活動の底にうごめく情熱であって、それがマグマのように脳の奥底から表面に吹き出して認知を動かすものであることが分かったのです。それが爆発するとき、人は行動を起こすのであり、それによって自分の持っている知的な、また意志的な力を発揮できるのです。画家の岡本太郎は生前「芸術は爆発だ!」と叫んでいましたが、言語習得も爆発だと私は思います。子どもの言語習得を見るといつもそう思います。私たちの心の奥底には、芸術的爆発の基盤となるマグマがあるように、言語的爆発の基盤となるマグマも存在するのです。それはおそらく、人類の祖先たちの何十万年・何百万年にわたる言語創出の努力にエネルギーを供給し続けてきたものなのでしょう。

 ところで「情熱」は英語では ‘passion’ ですが、これはおもしろい語です。ヨーロッパ中世にラテン語からフランス語を経て英語に入ってきた語のようですが、そもそもは「(十字架上の)キリストの受難」を意味しました。今でもキリスト教では ‘the Passion’ と書いてそのことを表します。そう言えば2年くらい前に、キリストの受難をリアルに描いた「パッション」という映画がありましたね。この語が中世において、「苦難」「苦しみ」の意味を経て「感情」「熱情」「恋情」「激情」などとしだいに語義を広めていったのです。中世のキリスト教ヨーロッパにあっては、この世に生きていくことは反自然的な苦しみに満ちた営みであったに違いありません。ですから、燃えたぎる ‘passion’ という語の奥深くには、現在でも「キリストの受難」の苦しみが鳴り響いていると考えてよいでしょう。

 さて、これまで外国語の達人と言われる日本人の伝記を読むと、その人たちは外国語学習への特別な情熱と才能を持っていたように思われます。いま私の手許に『英語達人列伝』(斎藤兆史著、中公新書)という本がありますが、これには新渡戸稲造、岡倉天心、斎藤秀三郎など10人の伝説的人物の英語修行が取り上げられていて、読み物としておもしろいものになっています。一読して感じることは、この人たちの英語学習への並々ならぬ情熱と、すぐれた語学の才能です。後者はさておいて、どうして彼らはそのような爆発的な情熱を持ち続けることができたのでしょうか。第1に時代の要請ということがあったでしょう。これらの人々は明治維新から第2次世界大戦までの激動の時代に生きた人々でした。(急いで付け足しますが、21世紀初頭の今も激動の時代です!)第2に、これがより重要なことですが、これらの人々は自分のなすべきことを知っており、はっきりとした理想的な自己像を心に描いていたと思われることです。たとえば新渡戸稲造は、19歳で札幌農学校を卒業しいったん開拓使御用掛の職に就いたのでしたが、英文学を修めるために東京大学文学部への進学を決意します。その面接試験で、試験官から英文学を学ぶ理由を尋ねられたとき、彼はかの有名な「太平洋のかけ橋になりたい」という言葉を吐いたといいます。そして新渡戸は、そのことに自分の全生涯をかけることになったのです。成功するためには、もちろん努力だけではなく才能も必要でしょう。だれもが新渡戸稲造のようになれるわけではありません。しかし、欧米人にとって習得が難しいと言われる日本語を母語として獲得した私たちが、もう一つの言語を自分の必要とする程度に使えるようになることは、特別な才能のない人にも充分に可能なのではないでしょうか。そのためにまず必要なことは、自分の心の奥底にねむる情熱の火に油を注ぐことです。