Archive for 9月 18th, 2010

< 英語との付き合い >             松山 薫

② 小学校時代 (2)
小学校は、同盟国ドイツのヒトラーのまねをして、国民学校と改称され、子供達は、ヒトラーユーゲントにならって「小国民」と呼ばれました。小国民は、清く、正しく、美しく生きねばならないということから、国民学校で一番重要な科目は、「修身」でした。5,6年生になると「修身」は校長自ら教えるところが多かったようです。修身の教科書には美談が並べられ、最後のところに徳目が書かれています。例えば「孝は親を安んずるより大いなるはなし」とか「虎穴に入らずんば虎子をえず」とかいったものです。これを「孝は親を安んずるより大なる話」「とらあなにはいらずんばとらこをえず」と読んで、先生にひっぱたかれた子もいます。話のほうは忘れても、調子のよい徳目のほうは今でもよく憶えています。それが、軍国主義教育の洗脳に役立ったのは間違いなく、言葉の魔力を感じます。とにかく、言葉を覚えるには調子が大事なのではないかと思います。Silent Wayという外国語学習法を開発したアメリカの言語学者、カレブ・ガティーニョ博士は、英語の例文は、5,7,9といった奇数語の方が偶数語よりも覚えやすいことを実験によって確かめたそうですが、やはり、rhythmに関係があるものと思われます。そこで、20年ほど前、茅ヶ崎方式の最初の教本を書いた時、用例をそのようにしようとがんばりましたが、時間がかかって編集者に止められ、あきらめました。今度機会があったらもう一度トライしてみようと思っています。
 徳目の言葉も難しかったが、もっと難解なのが「教育勅語」で、ほとんど全文ちんぷんかんぷんでした。「朕惟ふに」という出だしのところだけはわかるので、なんで天皇が犬なんだなど思いながら、頭を垂れて校長の荘重にして単調な言葉が頭の上を通り過ぎていくのを辛抱強く待ち、終わると全員が一斉に洟をすすり上げる音が校庭に響きました。当時の小国民はビタミン不足で、青洟を垂れていたのです。中学に入るとこれを全文暗記しなければならないのですが、小学校で散々(たぶん百回以上)聞かされてきたので、案外楽に憶えられました。もしかしたら、これが、私の日本文の基盤になっているのかもしれません。その頃は、歌のほうも小学生には難解なものが多く、わけもわからぬまま、元気に声を張り上げていました。一番よく歌った「愛国行進曲」の一番の最後のところに「キンノウムケツユルギナキ、ワガニッポンノホコリナレ」とうい歌詞があるのですが、皆さん漢字になおせますか。私は中学に入るまで「勤王の志士にはケツがないのか」と思っていました。しかし、こうした難しい歌詞も、中学で3年間工場に動員されて漢字を学ぶ機会のなかった私達にとっては、日本語を理解する助けになっていたのではないかと思います。この歌は第二国歌扱いで、日本軍が占領した南方の島々では今でも憶えている人がいます。10年くらい前のこと、日本の委任統治領であったマーシャル諸島の年老いた女性が日本語でこの歌を歌っているのをTVでみたことがあります。たぶん意味はわからずに丸暗記して歌っているのだと思います。メロディの力なのでしょうか。
それと、言葉に関して忘れられないのは、5年生の修身の教科書に出ていた20代の頃の勝海舟(麟太郎)の話です。本屋で見たオランダの兵書を読みたくて、50両の大金を工面したが、本は既に売れていた。そこで、麟太郎は買った人を訪れ、夜間に本を写し取ることを許してもらい、持ち主が感心して本をタダで譲ってくれたという話や、60両もする日蘭辞書58巻を1年がかりで2部づつ写して1部を売って生活費にあてたという話などに感動しました。勝海舟の話は、後に中学の教科書で学んだ杉田玄白の「蘭学事始」と並んで、私にとっては、生涯を通じて忘れることの出来ない教訓になっています。徳目主義の道徳教育には賛成できませんが、今とは比較にならない劣悪な環境の中で、明確な目的(海舟は兵学、玄白らは医学)をもって、外国語に挑んだ先達の努力は、後にNHKで英語ニュースを書くようになって、英語が聴き取れなくて悩んだ際に、大きな心の支えとなりました。(M)

今回の話題は外国語学習をめぐる心理学と言語学の基本的な考え方にふれますので、ちょっと難しいと感じる方もあるかも知れません。しかし心理学や言語学の専門知識がない方にもご理解いただけるように努めます。

 私たち日本人は、英語を学ぶとき、自分の中にあるどんな力(または潜在的能力)を利用しているでしょうか。人は生まれながらにさまざまな力を与えられており、それらが成長と共に、各人に与えられた環境と相互作用しながらダイナミックに発達していくことを心理学は教えています。そして現代心理学は、言語の習得を推進するのに最も重要なものは個人の認知力であると言います。認知力というのは、要するに、人の所有する知的能力です。そこには、言語音や文字を認知したり、音の連鎖や文字列から一定のパタンを見出して規則化したり、語彙の形式と意味を関連づけて概念化し、それらを記憶し、またそれらの要素を結びつけてさまざまなネットワークを作り出したり、それらを既知の文法知識と結びつけて有意味なセンテンスを構成したりする活動が含まれます。それらの活動のほとんどは脳の中で行なわれるので外からは見えませんが、外に現れる行動から脳の中で行なわれている活動を類推することはある程度できます。また最近の脳科学は、脳中でなされている活動をさまざまな方法で観察する技術を開発しています。

 しかし認知力だけで言語習得のすべてを説明することはできません。たとえば子どもの母語の習得は認知力だけで説明は難しいと考えられています。生まれたばかりの赤ちゃんは認知力も未発達で、そんな赤ちゃんが複雑な構造を持つ言語をどうやって習得するかは、21世紀の現在も依然として謎です。心理学者の中には認知力だけで説明できると主張する人もいますが、それは少数派のようです。現代言語学は、認知力とは別に、子どもが生まれながらに言語そのものの知識を与えられていると仮定しています。それによれば、子どもは生得的に「普遍文法」(すべての人間言語に共通する構造的特性:Universal Grammar)を知っていると言います。それゆえに、子どもは地球上のどんな土地に生まれても、驚くべき速さと一様性をもって、その土地の言語を数年のうちに獲得することができるというのです。この仮説は完全に証明されているわけではありませんが、子どもの言語習得の不思議を考えるとき、普遍文法の理論は説得力があります。もちろん、子どもはそれと同時に、鋭い音感や、徐々に発達してくるパタン認識や記憶などの認知力をも利用することは申すまでもありません。また子どもの文字の学習(つまり読み書きの学習)は、音声言語の基礎を習得した後に、必要な認知力の発達を待って行なわれます。

 母語の習得をほぼ完了した段階(10歳以降の子どもや成人)ではどうでしょうか。はっきりしたことは言えませんが、子どもの持つ普遍文法の知識はあまり利用できなくなってしまうようです。まったく利用できないわけではないと主張する研究者もいますが、幼い子どものようには利用できなくなっていることは確かです。ですから、成人の第2言語習得や外国語学習に利用できる力は、ほとんど認知的能力に頼ることになります。その認知の発達は、発達心理学者ピアジェ(Jean Piaget 1896-1980)によると、7~8歳頃に直感的思考から具体的操作の段階へと移行し、11~12歳頃に具体的操作から形式的操作の段階に変化します(これらの変化は、文化によってはもう少し早い年齢で起こると考えられています)。ピアジェは直感的思考段階での子どもの言語習得については深く研究していませんが、次の具体的操作段階では、具体的に自分の感覚や運動で確かめられる事柄についてはほぼ言語化できるが、具体を離れて抽象的に記号上で思考操作することはできないと言います。それができるのは形式的思考操作の段階に入ってからです。この段階の子どもは、時空間を超えた、実際の事物の操作の範囲外にある事柄を予想し、それを言語で表現できるようになります。つまり記号操作が可能になるわけです。これは大きな認知モードの変化であり、成人の認知的言語操作の典型的なパタンです。このように、子どもの母語習得と成人の第2言語習得・外国語学習の違いは、生得的な普遍文法をどこまで利用できるか、認知的能力がどのようにかかわっているか、という二つの観点から説明されるわけです。(土屋澄男)