Archive for 11月, 2010

だいぶ以前のことになりますが、勤務していた大学の英文科に入学してきた学生たちに、高校卒業までに英語の授業でどのくらいスピーキングを経験してきたかを質問したことがありました。約半数の学生が授業でほとんどスピーキングの活動を経験したことがないと答えたのを聞いて驚いたことがありました。彼らは教科書の本文を音読したり、その内容についての機械的な問答をしたりすることはあっても、本当の意味のスピーキング活動(自分の頭で考えて話すこと)はほとんど経験したことがないのでした。そこで今回は、誰にでもできるスピーキングの初歩的なトレイニングの方法から述べることにします。

 スピーキングは話し相手がいなくてはできないと考える人が多いでしょうが、一人でできることもいろいろあります。ボクシングの本格的なトレイニングには相手が必要ですが、その前にサンドバッグを相手に基本的なトレイニングをします。スピーキングもそれに似ています。サンドバッグは目の前に存在しなくてはなりませんが、話の相手はいま目の前に存在しなくても、想像力を使えば誰でも相手にすることができます。学校の先生、外国人の先生、級友、会社の社長、同僚、また会ったこともない人でもかまいません。歴史上の人物とでも対話できます。ボクシングでは常にグラブが必要ですが、スピーキングのトレイニングでは適当なテキストが必要です。それによって、スピーキングの内容とそれに関連した語彙や表現法をまずインプットしなくてはなりません。ですから、テキストはすでに学習ずみのもので、あなたに興味のある話題を扱っているものを選ぶとよいでしょう。すると次のようなトレイニングが一人でできます。

(1)自問自答:テキストの内容についていくつかの問い(questions)を考え、それらを順に自分自身に問い、それぞれに自分で答えます。最初はテキストを見ながら答えますが、2度目以降はなるべくテキストを見ないようにします。

(2)ストリーテリング:テキストの内容を誰かに語って聞かせるように話す練習です。テキストが物語の場合が比較的に容易ですが、説明文でも可能です。テキストを暗唱するのではなく、その内容の要点を話すようにします。繰り返すごとに、なるべくテキストを見ないようにすることが大切です。

(3)ショウ&テル(show & tell):上のストーリーテリングは、テキストの内容を理解するのを助けるピクチャーやカードや図表を用意すると、何もなしにするよりもずっと容易になります。これはいろいろな種類のプレゼンテーションに使える技法です。

(4)スピーチ:これは聴衆を前に行なうのが普通で、OALDは ‘a formal talk that a person gives to an audience’ と定義しています。しかしスピーチをするには準備が必要で、それはたいてい一人で行ないます。初歩の段階では、テキストを利用してスピーチ原稿を作るのがよいでしょう。最初に自分の言葉でイントロダクションを付け、テキストの要旨を述べ、最後に自分の感想や意見を加えてまとめるという方法もあります。

以上の方法によって何回か練習したら、自分の音声を録音し、それを聞き返して自己評価をします。自分で満足できるまで何回か繰り返します。テキストや原稿を見ずにできるようになったら、そのラウンドは終了です。

 しかし、いつも一人でスピーキングの練習をするだけではつまらない。ボクシング選手は、本番の試合を目標にモティベーションを維持しテンションを高めることができます。英語スピーキングも同じです。やはり相手がいなくては、モティベーションは保てません。もちろんディスカッションやディベートはできません。学校の生徒や学生は、英語の授業で、さまざまなスピーキング活動が実践できるのがもっとも望ましいことです。中学校ではオーラル中心の授業形態が普及してきて、そこで良い基礎がつくられる可能性が以前より高くなってきたように思われます。問題は高校と大学です。こんど改訂された高等学校学習指導要領(来年度から実施)は、「英語表現Ⅰ、Ⅱ」という科目を新設しました。この一部をスピーキング専用にするならば、私がここで述べているスピーキング活動は実現可能ではないかと期待をしています。毎週2時間、高校2年と3年にわたってスピーキングの授業を実践できれば、高校段階でのスピーキングによる自己表現能力は飛躍的に改善されるに違いありません。そこではもちろん、先生はプロンプターになって生徒が活躍できるようにしなければなりません。それに呼応して大学も、少なくとも選択科目として、「英語スピーキング」の科目を設置すべきです。一部の大学ではすでに行なっているようですが、これはすべての大学のカリキュラムに組み入れるべき科目であると私は考えています。(To be continued.)

「人種差別」について
(1)日本人は人種差別とはあまり縁がないと考えている人が多いように感じられます。歴史的には、そして現代でも、アイヌの人たちや沖縄の人たちに人種的な偏見を持った、今でも持っている“日本人”がいることは確かなように思います。現に、「いじめ」というのは、「自分と何か違う」という違和感から始まることが少なくありません。転校してきた生徒の言葉になまりがあるだけで、十分に「いじめ」の原因になるのです。

(2)前回で言及しましたドラマ“99年の愛”(TBS 系)が始まりましたが、まず日本の真珠湾攻撃による日米開戦の結果、大勢の日系移民が、アメリカ人の迫害に合い、あげくの果て、砂漠の中の収容所に強制移住させられるところが描写されていました。若い人たちの中には、アメリカ人はひどいことをしたものだと単純に考える人が少なくないのではないかと心配します。

(3)しかし、アメリカでは、1988年に、当時のレーガン大統領が、第2次世界大戦中に日本人やその2世たちを強制移住させたことは誤りであったと認めて、賠償金を払う約束までしています。その陰には、日系アメリカ人部隊によるヨーロッパでの目覚ましい戦績(これも容易なことではなかったようですが)も影響しているでしょう。歴史から反省すべきことを学び、一定のけじめをつけることは為政者としてやるべき大事なことだと思います。

(4)日本では、昭和12年からの“日支事変”(これは正式な宣戦布告による戦争ではなかったのです)の最中に、私の担任の先生が小学3年の生徒を相手に露骨な「朝鮮人いじめ」をしていました。宿題を忘れると、日本人の生徒には大声で叱るだけでしたが、朝鮮人の生徒たちには、こん棒でお尻をひっぱたく罰を与えるのです。大きな泣き声をあげるその生徒たちの恨めしそうな目つきは今でも忘れられません。「人種差別」はいつでもどこでも起こり得るのです。

「覇権主義」のこと
(1)NHK 出身の池上彰氏は、解説がうまいので今は民放で引っ張りだこですが、テレビ朝日系の番組では、5時間も続く“スペシャル”がありました。多数のタレントを相手に、政治、国際関係の難しい話をするのですが、学校の授業という観点からは、決して真似をしてはいけない“授業”でした。テレビでは、コマーシャルは入るし、ニュースや天気予報などで中断するし、とても集中しにくいのです。これはプロデューサーの責任でしょう。

(2)中国が、アメリカに対して中国はハワイ諸島以西を統治するから、アメリカは以東を統治せよと提案したとの話が紹介されると、タレントからは、「中国は勝手でひどい」という声が起こりました。日本は第2次大戦中に「大東亜共栄圏」ということを主張して、いかにもアジアの諸国が仲良く団結して、欧米の覇権主義に対抗しようと呼びかけているように見せかけました。実態は日本軍部の侵略を美化する企みでした。軍部が強くなるとどこの国も危険です。

(3)私は、決して自虐的に日本の欠点だけを指摘したいのではありません。国際関係を論じるならば、広い視野を持って、出来るだけ公平な見方や考え方をするべきだと言いたいのです。テレビドラマも、ただ“面白い”、“面白くない”という単純な見方をしたのでは、“面白くなければテレビでない”といったテレビ害毒に侵されることになると思います。(この回終り)

< 電子書籍の衝撃 >               松山 薫

「電子書籍の衝撃」(佐々木俊尚著)を読んでショックを受けた。この著者によると、
iPadなどの電子書籍用端末(タブレット端末)の出現は、グーテンベルグの印刷術の発明以来の出版革命で、電子書籍の普及によって著作者から読者へ直接著作物が渡ることになり、出版社や編集者、取次ぎ、書店は中抜きで、存在しなくなるというのである。私のように本を書いて暮らし、身内に出版社や教材出版社を抱えている人間にとっては他人事ではない。そこで、電子書籍関連の本や雑誌を7冊読んでみた。「電子書籍の衝撃」「電子書籍元年」「電子書籍入門」「電子書籍の基本」「電子書籍スタートアップガイド」「電子書籍でつかむビスネスチャンス」「電子書籍の時代は本当に来るのか」以上7冊である。で、ショックの内容がわかったかというと、よくわからない。未だなんともいえないというところである。数年前にe-learning騒動というのがあって、e-learningで、学校は要らなくなるというようなことが言われた。そうすると、我々が全国に展開している協力校はどうなるのだということで、この時もかなり勉強した。たしかに、知識を伝えるだけなら、何も学校を作って、同じ時間に、一ヶ所に生徒と教師を集めて学習活動をするなどというのはカネと時間の無駄だ。しかし、学校の役割はそれだけではない。人間が直接触れ合ってこそ伝えられるものがあるからだ。やはり、e-learningが学校に取って代わることはなかった。ただ、その時に勉強して頭に残っていたことがある。それは、書籍のデジタル化は進むのではないかということだ。そして、その順序は、辞書、辞典→新聞→実用書→文芸書→雑誌ということになるだろうということだった。やはりそのように進んでいるようである。私は仕事上、辞書や辞典が相当要るし、新聞の縮刷版も朝・毎・読・日経を10年分保存していたから、6畳一部屋では足りず、廊下まではみ出して、危険になってきたので、とうとう田舎に部屋を買って本を疎開させることになってしまった。ところが、そのうちに辞書辞典類はもとより新聞の縮刷版もCD化されて、3LDKの我が家でも十分保管できるようになり、田舎の部屋は売り払った。クラウド・コンピューティングになれば、CDその他のソフトも要らなくなるらしい。世界一の英語辞典であるOEDは、もはや紙の版は作らないというし、新聞も次ぎ次に、on-line化されている。となると、次は実用書つまり、我々の本である。そこで、老眼に鞭打って猛勉強したのだが、上記のような結果だった。しかし、電子書籍には、e-learningとは異なる可能性がありそうだということも感じ取ることができた。紙の本がなくなるかどうか、わからないが、電子書籍では紙の本では出来ないことが可能になるのはたしかである。しかも、実用書にとってそれはまさに、夢の手段を提供してくれそうなのである。そこで、これまでに書いた10冊の教本を電子書籍化する夢を見ることにした。そのまま合本すると2千ページを超えるが、電子書籍にはページ数の制限はないから可能である。それを全部通しページにして、これをアプリ化すると、夢のようなことが出来そうなのである。夢であるから実現するかどうかわからない。しかし、教材作り30年のわが人生最後の夢にはふさわしいように思う。仲間にその夢を語ったら、早速4人が、一緒に夢を見ようということになり、“夢クラブ”を結成した。(M)

日本人を対象とした英語学習に関する調査は、ほとんど常に、「英語をもっと話せるようになりたい」という願望が非常に強いことを示しています。1980年代に大学英語教育学会が行なった大学生を対象とした大規模な調査でもそうでした。日本の大学生の多くは、高校まで少なくとも6年の英語学習の後に、他の言語技能のどれよりもスピーキングの技能を伸ばしたいと答えたのです。日本が経済成長のただ中にあった時期の調査なので、その後いくぶん変化したかもしれませんが、現在でも大学生の英語スピーキングへの願望は依然として強いのではないでしょうか。ところが、同時期に行なった大学教員を対象とした調査では、学生に重点的に教えたい技能はリーディングであると答えた教員が約半数を占めました。これは興味ある現象です。学生はスピーキングをやりたい、だが教員はリーディングを教えたい。なぜ学生と教員の間にそのような食い違いが生じるのでしょうか。その理由はよく考えてみる必要がありそうです。ここに日本の英語教育の問題点の一つが集約されていると思えるからです。

 英語を学んでそれが話せるようになりたいと思うのは当然のことです。それにもかかわらず、大学生たちは高校までにスピーキングの技能を伸ばすことができなかったという思いが強いのです。6年間も英語を学んだのに、思うように話せないではないか!学生たちのこの思いは理解できます。なぜ日本では学習者の願望をかなえるような教育ができないのでしょうか。中学校では、私の知るところ、オーラル中心の授業がかなり広く行なわれるようになりました。しかし高校はそうではありません。オーラル中心の授業は例外的であって、主流はいまだに伝統的な訳読文法式授業なのです。教科書の英文を翻訳して文法事項を説明するという例のやつです。このやり方が衰退しない理由はいくつかあります。第1にこれが明治以来の伝統的な英語教授法になっていて、多くの教員がこのやり方をもっとも得意としており、これが大学受験にいちばん役に立つと信じていること。第2に、英語の専門家の中にこの伝統的教授法が日本人に合った効率的な英語学習法だと弁護する人が少なからず存在し、この教授法を愛する高校教師たちを元気づけていること。第3に、高校はいまだに40人学級で、教室環境がスピーキングの指導に適していないこと。第4に指導する教師の多くが英語を話すことを不得意としており、スピーキングの指導の経験がないこと。ざっと挙げてもこれだけあります。この状況は大学の英語教育にも引き継がれ、大学教員の多くもスピーキングの指導には熱心でなく、大学では専門書が読めるだけのリーディング力をつけたいということになるわけです。

 急いで付け加えますが、筆者はここで伝統的訳読文法式教授法を全面的に否定しようとするのではありません。筆者も学生時代には(大部分が戦中・戦後の混乱期でしたが)主としてその方法で英語を学びました。問題は、その教授法ではスピーキングの技能はまったく発達しないということです。生徒のするおもなことは、ただ机に座って教科書のテキストの中の単語を辞書でしらべ、知っている文法知識を動員してセンテンスの構造を分析して意味が通じるような訳文をこしらえ、テキストに関連した先生の説明を聞き、先生やテープのあとについて音読することです。先生の英語を聴いたり、テキストの英文を読んだりすることはしますが、英語を発音するのは音読する時だけで、スピーキングをする機会は全然ありません。もしそういう形態の授業だけが高校や大学のクラスで今も行なわれているとしたら、これは実に奇妙な光景です。この言語学習法は、すでに古語となった2000年前に書かれた聖書ギリシャ語や、古代・中世のローマ時代のラテン語を学んでいるのと同じです。あまりにも時代遅れだと言わざるをえません。

 ところで、人々が「英語を話せるようになりたい」と言うとき、それが「日常会話ができるようになりたい」という意味であるならば、それは通常の学校のクラスでは期待できません。日常会話の学習は、英語が日常的に話される土地に行くのが最良です。学校のクラスではスピーキングは教えられますが日常会話は教えられません。「スピーキング=日常会話」ではないのです。「日常会話」とは何でしょうか。また、一般に「会話」とは何でしょうか。伝えたい内容があれば、どんなことでも会話になりうるのではありませんか。通常の英語クラスのスピーキングでは、どんなトピックでも取り上げることが可能です。そこで問題となるのは、どんなトピックを選び、それをどう話すかです。こんどの高等学校学習指導要領では「英語会話」という科目が新設されましたが、私の想像では、その科目で教えられるのは日常会話などではなくて、オーラル・コミュニケーションのストラテジーや一般的な作法ではないかと思います。(To be continued.)

「テレビドラマ」
(1)ドラマでは、NHK 朝の「テレビ小説」が視聴率では強いようです。私は文学の専門家ではありませんから、素人の見方に過ぎませんが、前回の「ゲゲゲ」の最後のほうは、話を引きずり過ぎたように思います。二人の娘が学校に通うようになり、いろいろ悩むようになるわけですが、肝心な主人公の漫画家、水木しげるが、苦労のあげくやっと成功への道が見えてきたあたりで終わったほうがよかったように思います。話を伸ばすと、当然ながら、年寄りには死んでもらうことになり、さらに話がややこしくなりがちです。

(2)私は、ハッピー・エンド(happy ending)で終わるべきだと言うつもりはありません。話のクライマックスを際立たせたほうがよいと思っているだけです。話が長くて複雑と言えば、橋田寿賀子の「渡る世間は鬼ばかり」(TBS 系)は好例です。これは長寿番組(断続的に20 年間)ですが、この 10月から始まったシリーズが最終のものだそうです。料亭の主人公の男性に5人の娘がいて、それぞれが各自の家庭でトラブルに巻き込まれたり、恋人が出来たり別れたり、と一見ありふれた展開です。しかも、あまり長く続けるから、出演していた俳優が亡くなって、話を変えたり、代役を立てたりで、そんな筋書きのほうが、よほどドラマチックです。

(4)“長い”と言えば、このドラマの題名も長くて、“ワタオニ”なんていう略称を使っていますが、感心できません。せめて「渡る世間」とか「鬼ばかり」でいいではないでしょうか。もっとも、若い世代には、「渡る世間に鬼はない」という元の諺を知らない人もいるので、橋田流の皮肉も意味をなさないことになります。ここでも“フィーリング”ですべてを処理する人たちの勝ちということになりそうです。ただし、この作家には、あらゆる年代、時代を越えて、ルポライターのように時代を読む炯眼があって、敬服します。11月3日夜から始まる「99 年の愛」(TBS 系)は、99年前にアメリカに渡った日系アメリカ人の苦悩と愛を描いた作品のようで期待しています。

(5)犯罪者を探す「推理もの」が盛んですが、どれも“ワンパターン”であまり見る気がしません。しかも、殺人場面だけはいやにリアルで、残酷さを強調します。犯罪者の心理的な葛藤を描く面では新鮮味がないわけではありませんが、犯人を追いつめて白状させる場面は、たいてい崖っ縁とか、ビルの屋上というのは工夫が足りません。

(6)最後のクレジットには、「このドラマはフィクションです」と断ってありますが、必要でしょうか。もっとも、「ゲゲゲの女房」では、実在しない人物も登場していました。したがって、あのような作品では、“フィクション”と“ノンフィクション”の区別は微妙ですから、こんな説明では不十分です。もっと分かりやすくなるように知恵を絞ってもらいたいものです。(この回終り)

リスニングに関して、良い言語学習者(good language learners)がどんなスキルまたはストラテジーを用いるかをしらべた専門的研究がいくつかあります。それらの中から特に重要と思われるものを4点ほど取り上げます。

 最初は動機づけ(motivation)の問題です。リスニングの学習に動機づけが問題となるのは意外だと感じる方があるかもしれません。しかし私たちが人の話を聴くのには目的があるはずです。家で祖母の昔話に耳を傾ける目的は何でしょうか。学校で先生の話を注意深く聴くのは何のためでしょうか。政治家の街頭演説に立ち止まって耳をすますのは何のためでしょうか。人によって目的は違うかもしれません。しかし同じ人でも目的によって聞き方や聴き方が違ってくるのではないでしょうか。ある場合にはただ時間つぶしに、あるいは楽しむために聞くこともあるでしょう。この場合は「聴く」よりも、より広義の「聞く」に近いでしょう。意識の働きはあまり活発ではありません。音を聞きながら別のことを考えることもあります。「リスニング」は聞こえてくる音声に注意(attention)をはらうことです。ですから、誰かにそうするように命じられたからというような、他律的な目的で聴く(または聞く)場合にはあまり身が入らないのが普通です。そうではなくて、何の目的で聴くのかを考え、自らの意志で聴くことを選択し、熱心に耳を傾けて聴くのが学習に役立つリスニングです。そういう自律的なリスニングをすると、理解できた箇所とそうでない箇所が明確になり、メタ認知的な脳の働きが活発となり、自分の学習の進歩が自覚できるようになります。それが次の学習への動機づけとなるというわけです。

 次に、上の自律的リスニングと関連しますが、良いリスナーは話者の話を集中して聴きます。リスニングという行為は、聞こえてくる音声から、そこに含まれるメッセージを抽出する(そのために言語形式と意味との関係を短時間に処理する)というプロセスは非常に複雑で熟練を必要とする作業です。したがって高度な集中(concentration)を必要とします。しかし、まだ熟達していない言語の聴き取りに集中を保つことはとても難しいことです。たとえば、聴いている途中で知らない単語が出てきたりすると、それにこだわって集中が途切れます。すると脳の中の処理作業が混乱します。良いリスナーは、そのようなときに注意を別の方向にむける(たとえば音声の区切りやイントネーションに注意をシフトする)などして、集中を回復する努力をすることが分かっています。これはリスニングで集中を保つための大切なスキルです。

 次に、良いリスナーは概して ‘empathy’(感情移入、共感)の能力にすぐれていると言われます。そういう人は、相手の経験をあたかも自分自身の経験であるかのように感じることのできる人です。そして相手がなぜそういう話を伝えたいと思っているかを理解します。これは特に一対一のコミュニケーション場面で大切なことですが、教室での先生と生徒たちの学習場面にもあてはまるのではないでしょうか。このことは母語でのコミュニケーション場面を考えればよく理解できることです。赤ちゃんはラジオやテレビやテープの音声だけでは母語を習得することができないと言われています。その大きな理由は empathy の能力が育たないからです。相手が機械では言語能力は育たないのです。成人の自学自習ではCDやDVDを利用することが多いと思いますが、そのような場合にも、その声の主への感情移入(たとえば自分がレポーターになったつもりになるなど)が必要です。ただ機械と向き合って話し手のことを少しも考えずに聴くというのでは、実際的なコミュニケーションに役立つリスニングにはならないでしょう。

 リスニング学習の最後に「作動記憶」(working memory)のことにちょっと触れておきます。作動記憶とは短期記憶のことですが、長期記憶に必要な情報を入れる前に、聞こえてくる音声のチャンク(ひとかたまり)をごく短時間保持して、先ほど述べた言語処理(音声の言語形式を処理して必要なメッセージを抽出する作業)を行なう記憶スペースのことです。ここで保持される情報量は最大7チャンクとされていますが、未熟な言語ではチャンクの大きさが非常に限られ、慣れるに従ってより大きなチャンクを扱うことができるようになります。良いリスナーは、一度に処理することができるチャンクが大きいことが知られています。チャンクを大きくするためのトレイニングとしては、聴き取ったチャンクを反復する「リピーティング」や、聴き取ったチャンクを書き取る「ディクテーション」が有効とされています。そして慣れるに従って、チャンクを次第に大きくしていきます。ぜひためしてみてください。<リスニングの項おわり>

 「それでは最後のページを開いてください」。監督者が、真剣な表情で鉛筆を握る9名の受講者に言います。「今は何も描いてありませんが、そこに大きなマルを描いてください。はい。いいですか。これは時計です。では、時間をあらわす数字を書き入れてください」。みんな鉛筆を動かします。「こんどはそこに3時45分をあらわす針を入れてください。針には短い針と長い針がありますよね」。

 運転免許証更新。75歳をすぎると、更新は自動的ではありません。まず「講習予備検査」と呼ばれる認知機能検査を受けます。冊子を渡され、指示にしたがって回答を記入します。第一問:年月日と時刻を書く。第二問:アイウエオ、カキクケコなど、監督者が言う5文字を、さかさまに書く。たとえば「アイウエオ」なら「オエウイア」というように。第三問:これが難しい。大きなパネルに4つの絵が描いてあり、そのパネルを4枚ーーつまり合計16の絵をじっと見る。戦車、とんぼ、レモン、ステレオなど、種々雑多なカテゴリーの絵・・・とても覚えられるもんじゃありません。「はいそれでは、思い出せるだの絵を文字で書いてください。全部で16です。漢字でもかなでも結構です」。認知し、記憶し、再生する力を見ようというテストです。そして最後が「時計の針入れ」だったのです。

 ほっと一息つく間もなく、今度は視力検査と運動反射機能デストです。普通の視力検査以外に、動体視力(動いている時の視力、あるいは動いているものを認知する視力)の検査と、明るいところから急に暗い場所に入った際(たとえばトンネル)に、目が暗さに慣れるまでの時間をチェック(復元力テスト)を受けます。1分以内にものが見えてくればOK。私は51秒なのでパス。でも、「若い人は25秒から30秒で見えてくるんです」と言われてガックリ。次に待ち構えているのが、シミュレーターを使った反射機能テストです。スクリーンに道路が写され、障害物を避けながら運転します。問題はそれだけではありません。道路上に信号機があり、それが急に赤、黄色、青と変わります。赤になったらブレーキ、黄色ではアクセルを離し、青ではアクセルを踏み続けます。コンピュータが運転技能と反応速度を記録しています。

 「さあ、今度は実車テストです」。9人は広い運転練習場に出ます。「3時間半の講習はこれで終わりです。頑張って運転してください」。センセイがみんなを励まします。3人が1グループになって、教官と車に乗り込み、運転が始まります。「おっと、一時停止で止まりませんでしたね。あ、敷石に乗り上げちゃいました。こんな時には、早めにブレーキを踏みましょうね・・・」。乗り慣れていない車のせいもあって、バックするのも思うようにいきません。結局私は、総合点5点満点のところ4点をとり、マアマアの状態と分かってホッとしました。一緒に試験車に乗っていたおじいさんが、さんざんミスを繰り返したあと、ぽつりと言いました。「もう87歳。運転をやめようと思うんですけどねえ。ただ、病気のハアサンを病院に連れて行くんで・・・」。