Archive for 3月 24th, 2012

< 英語とのつい合い ⑯ 失業 >  松山 薫

⑯ 失業

 教師を辞めて東京へ帰った翌日義兄が訪ねてきて、いきなり、「貴様、それでも長男か!」と怒鳴られ、猛烈なビンタをくらって廊下から庭へふっ飛ばされた。10歳年上の義兄はシベリア帰りの元関東軍少佐でビンタはお手のものだったから、よける間もなかった。義兄もまた長男で、復員後は、心ならずも元部下の経営する製薬会社に勤めて年老いた母親と弟妹を養っていた。義兄の気持ちもわかるので、抵抗せず、「親、兄弟を餓えさせるようなことはしない」と誓って許してもらった。

 しかし、私の見通しは甘かった。朝鮮戦争による特需がなくなり、丁度戦後最悪の“なべ底不況”の真っ最中で、なかなか仕事が見つからなかったのである。赤羽に住んでいた私が、朝8時に王子の職安(現在のハローワーク)ヘ行ってみると、既に何百メートルもの求職者の列ができていた。最初に紹介された職は、自衛隊小牧基地の英語の教官だったので、即座に断った。英語も教師ももう一度やるつもりはなかったからだ。一度断ると1ヶ月は次の職を紹介しないのがルールだと言う。まあ、若干の貯金は用意したし、そのうち共済組合の退職金が来るから何とかなるだろうと思って帰った。1ヶ月は貯金とアルバイトで食いつなぐつもりで、「蛍雪時代」という受験雑誌の懸賞英作文の添削と近所の柔道の道場での代稽古をやったが、病気の母と狭心症でまともな仕事の出来ない父、それに高校生と大学生の家族を養うに足る収入には遠く及ばなかった。

 1ヶ月たって職安へ行くと、紹介されたのは、双眼鏡のセールスだった。人に頭を下げたことがないのでセールスは向いてないと思って、「柔道3段で体力には自信があるから、ニコヨンになりたいんだが」と頼むと、「ふざけるな!」と怒鳴られた(昔の役人は威張っていた)。ニコヨンと言うのは日給240円(実際にはもっと高かったが、昔の呼び名が通称になっていた)の日雇労働者である。そのお役人は、「一応の学歴がある者がニコヨンになったら、学歴も職歴も無い者はどうなるのだ。外に並んでいる人達の顔をよく見て来い」と言うのである。
2時間近く列に並んで中年の失業者達の疲れきった生気のない顔を見るともなく眺めていたので、お役人の声は心に響いた。1週間以上やってダメなら次の仕事を紹介するというのでセールスマンになることにした。板橋にあった双眼鏡の製作工場で、保証金を入れて双眼鏡を10本ほど預かり、飛び込みで売って歩いたが、一月たっても1本も売れなかった。

 この先どうなるのかとだんだん不安になってきて、自宅の前の坂道を帰る足取りがだんだん重くなり、病気の父母や弟達の心細げな顔がチラついた。頼みは20万円ほどの共済会の退職1時金だったから、学校や県教育庁に何回か催促の手紙を書いたが、ナシのつぶてで、手元に届いたのは結局その年の暮れになり、もはや貯金は尽きかけていた。

 体力勝負が駄目ならやっぱり英語に頼らざるをえないのかと思い始めていた或る日、新聞の求人広告欄を見ていると、「貿易商社。コレポン求む。未経験者可」という3行広告が目に入った。(M)