Archive for 3月 1st, 2014

(188) 人権大国への道

所与の条件 ③ 国土と隣国

隣国 (1) 韓国 

 韓国との外交関係が急激に悪化したのは、「両国間の近代史」をめぐる両国政府の認識の違いに起因するものであった。政府間関係の悪化に伴って、残念なことに、日本国民の間にも“嫌韓感情”が拡がっている。内閣府の昨年の外交に関する世論調査によると、「韓国に親しみを感じるか」という質問に対し、「親しみを感じている。どちらかというと親しみを感じている」が29.4%、「親しみを感じない。どちらかというと親しみを感じない」が59%となっており、一昨年の調査より、前者が23%減り、後者が24%増えている。書店の店頭に“嫌韓・嫌中”コーナーが設けられたり、一部の週刊誌は、皮相的、感情的な記事で”嫌韓・嫌中感情“を煽っている。

 私自身、子供の頃に” 朝鮮人いじめ“ に加わったことがあった。世田谷の奥澤に住んでいた頃、少しはなれたところに在日朝鮮人の住む一角があった。親は、あそこには行くなと言っていたが、どんな生活をしているのか見たくて、時々”探検”に行った。一番知りたかったのは、本当に“哀号”と言って泣くかどうかだった。というのは小学校の同級生に、その”部落”から通っている子供がいて、私たちは“半島”と呼んで仲間はずれにし、先生に殴られて小便をちびりながら泣くのを面白がって眺め、“哀号チョンペンタ”と綽名をつけていじめていたからだ。朝鮮人たちは結構楽しそうに暮しており、探検の成果はなかった。

 私たち子供が朝鮮人を蔑視したのには、大人たちの話や態度が影響していた。小学校では、朝鮮は日本の一部であることは自明として韓国併合の歴史などは全く教えられることがなかったからだ。親父が酒を飲みながら時々お袋にする昔の自慢話の中に、関東大震災の時に自警団を組織して“不逞鮮人”を“退治”したというのがあった。大震災の混乱に乗じて朝鮮人が井戸に毒を投げ込んでいるとか暴動を起こすという噂が広がり、警察と民衆が手当たり次第に朝鮮人を探し出して殺したのである。作曲家の故・団伊玖磨は、随筆「パイプのけむり」のなかで、”顔つきが朝鮮人に似ているので、関東大震災の時の朝鮮人狩りにひっかかりそうになった”と述懐している。このとき殺された朝鮮人の数は4千人とも6千人とも8千人とも言われ、正確なことはわからないが、無惨な屍がいくつも転がっている写真はみたことがある。

 戦争が終わって朝鮮人による報復の噂が聞えてくると、親父や俺もやられるかなあという漠然とした不安を持った。敗戦直後、疎開先の秋田から東京の親父にコメを運んでいた時のことだ。東北本線の列車は同じ様にコメを背負った人達で文字通りすし詰めだった。その頭の上を何人かの朝鮮人が、肩や頭を踏みつけながらやってきた。中の一人が「いいか、これからお前らのコメを買い上げる。代金はこれだ」というと、めぼしい荷物を日本人の背中から剥ぎ取って網棚に放り上げ、青森あたりから持ってきたのだろう、リンゴを一つ持ち主に渡し、仲間が網棚の荷物を掻っ攫って下車して行った。情けないことに、私を含めて反抗する日本人は一人もいなかった。集団暴力に対するおそれがそうさせたのだが、どこかに、“これでアイコだ”という贖罪の気持ちがあったのかもしれない。

 それから十年余り経った頃、埼玉大學に通っていた3番目の弟が、自転車で下宿の近くを通行中に車と接触して救急車で病院に運ばれた。うろたえた母からの知らせですぐに行ってみると、幸い怪我はたいしたことはなかったが、車を運転していたのは韓国人の青年で、看護婦さんの話によると先ほど現れて暴言を吐いて立ち去ったという。”賠償金なんか払わねいよ”というようなことだったらしい。警察で住所を聞き出し、浦和駅前のいわゆる”朝鮮人街”の一角にある青年の家を訪ねた。野菜を商っているらしい店の戸は閉められていたが、一声かけて中に入ると、20人ほどの男に取り囲まれた。中には棍棒を持っている者もいた。青年の親だという男が「何しにきやがった」と怒鳴り、男たちの輪が縮まった。私は名刺を出し「別にカネをもらいにきたわけではない。もっと冷静に話ができないのか」と切り出すと「何だ。御用放送の記者か。だったらお前ら日本人が我々にどんなことをしたか知っているはずだ。謝るのはお前のほうだ」「土下座しろ」などという怒声が続いた。私は「それなら警察に相談して決着をつける」とその家を出たが、家へ帰る電車のなかで、「お前ら日本人がどんなことをしたか知っているはずだ」という言葉が心に突き刺さっていた。実はほとんど知らなかったのである。       
 
 丁度、在日韓国・朝鮮人の北朝鮮帰還が始まり、朝鮮総連などを取材するうちに、我々と姿かたちも話す言葉も全く違わない人達の心の内に、日本や日本人に対するすさまじい恨(ハン)が潜んでいることを知り、事実を知ろうともせずにうわべの同情をする私のような日本人に対する軽蔑の念に否応なく気づかされた。

 そういうことがあって、私は遅ればせながら、自分で日韓関係史の勉強を始めた。それはまさに、深いところで人生観をうがつような体験だった。

 ずっと後のことだが、私と同じ様な体験をした日本人がいることを知った。15歳年上の作家、角田房子である。彼女は「閔妃(ミンビ)暗殺」(新潮社)の前書きで次のように述べている。「70歳になった頃、NHKのディレクターと偶然池上本門寺のそばを通りかかり、珍しい人の墓所がありますよと岡本柳之助という人物の墓に案内された。そしてこの人物が日韓併合の発端となった竹橋事件の閔妃暗殺の首謀者であったことを知り、この事件の真相に迫ろうと、3年をかけてこの本を書き上げた。自分が隣国である朝鮮と日本の過去のかかわりについてあまりにも無知であったことへの慙愧の念に支えられての苦行であったことが分かる。あとがきの中で、「過去の歴史に厳しく目を据え、歴史に問いかけ、その教訓に学ぶという謙虚な姿勢を持たなければ、日本の孤立はますます深まるのではないだろうか」と書いている。それから20年、残念ながら彼女の警告は現実のものとなったようだ。彼女は、また、この本のエピローグで、ハルビン駅頭で初代朝鮮統監の伊藤博文を暗殺した安重根が、処刑場へ向かう途中、日本人看守のそれまでの親切を謝し「東洋に平和が訪れ、韓日に平和がよみがえった時、生まれかわってお会いしたいものです」と述べたことを紹介している。

 私達の世代は戦争によって2重の意味で歴史、特に近代史を学ぶ機会を奪われた。一つは文字どおり物理的に学校へ行くべき時に疎開工事や軍需工場へ動員され、学ぶ時間がもてなかったこと、もう一つは皇国史観によって真実の歴史から目をおおわれていたことである。「過去を学ばなければ現在を理解することはできない」という家永先生の言葉を聞かなかったら、私は歴史に目をつぶったまま一生をすごしていたかもしれない。今、中学生や高校生がどんな歴史を学んでいるのかが気になる。閔妃や安重根はおろか、朝鮮戦争についてさえ知らない日本人が増えているのではないか。日韓関係がうまく行かない根本原因はここにあるのではないか。1998年小渕首相と韓国の金大中大統領による日韓共同宣言は最後に「両国国民、特に若い世代が歴史への認識を深めることが重要である」と強調している。しかし、日本側がそれを実行しているとは思えない。韓国側が「行為で示せ」というのも無理はない。

事実を知らずして感情に流され真実を見失う愚かさを再びくり返してはならないと切に願う。
(M)