Archive for 5月 14th, 2011

< 私見 日本の生きる道 ① > 松山 薫

 我々の世代は、少年期から青年期へ移る頃、敗戦という開闢以来の惨禍に遭遇し,それに伴うパラダイムの大転換を体験した。しかし、60年を経て振り返ってみると、この歴史的大転換は極めて中途半端なものに終った。それはこの大転換が占領軍という他力によって実現したものだったからだろう。東日本大震災と原発事故という未曾有の災害に遭遇して、今もしパラダイムの大転換が必要であるならば、我々国民の内的な力を最大限に発揮して行なわれなければならず、それは、この国始まって以来初めての試みになる。国民のコンセンサスを得るためには、辻井喬が主張するように、公開された数多くの討論の場が必要である。私にはもはや大転換に参加する時間はないが、あずかり知らぬうちに実行され、中途半端に終った敗戦後の大転換の体験者として、せめて、新しい大転換のための討論には加わりたいと思う。

 そのため、日本のいわばオピニオンリーダー達がパラダイムの転換についてどんな考えを持っているのかを知ろうと、前回、前々回に書いたように、「文芸春秋」と「世界」の特集を読んでみたが、率直に言って、あまり共鳴できるものはなかった。社会改革に情熱を燃やしたドイツの社会学者マックス・ウェイバーの研究者だった大塚久雄(元東大教授)は、社会的な改革のうねりをつくりだすには、人々の心の共鳴板をたたかねばならないと述べていた。”識者”の意見の中で、たったひとつだけ、私の心の共鳴板をたたいたのは、前にも書いたように、元「新党さきがけ」代表、武村正義の「日本人よ、原点にもどろう」という提案であった。一見、荒唐無稽に見えるこの提案は、日本の生きる道について、最も根源的な視点を含んでいると思う。

 武村提案は、「日本は世界(の先進国)に先駆けて人口減少の時代に入っている。50年後には8千万人という予測もあり、世帯人数が4人くらいに復元すると、世帯数は2千万となる。この国には、かって5百万町歩の田畑があった。これを2千万世帯で割ると、一家族当たり2反半(450坪)となり、自給自足が可能だ。この土地の半分で4人家族に必要なコメはとれる。残りの半分で野菜を作り、鶏や豚を育て、池を作って魚を飼うこともできる。」と述べ、全ての国民が農耕で生きていくことを日本再建の基盤にすべきであると主張している。

 琵琶湖に近い農家に生まれ、青年期に農地改革を体験し、後に自治官僚、滋賀県知事から中央政界に入って官房長官、大蔵大臣をつとめた武村が、戦後のパラダイムの転換の中で、唯ひとつ、徹底的に行なわれ、農地の事実上の再配分となった農地改革に大きな衝撃を受けていたことは想像に難くない。今度の提案は、いわば、第二の農地改革である。また、武村の「小さくてもキラリと光る国」という政治的信条は、戦前から戦後にかけて石橋湛山(元首相)が唱えた「小日本主義」と通底するところがある。さらに、武村提案には、若い頃、自治官僚として留学した(西)ドイツの「緑の党」が、反原発を旗印に、現在のドイツ政界に大きな力を及ぼしつつあることも影響しているに違いない。(M)

* 農地改革: 江戸時代の社会の土台であり、明治維新においても手付かずであった地主制度について、占領軍は封建思想の温床であるとして、日本政府に対し、資産家や元貴族の不在地主が持つ全ての土地、在村地主の持つ1町歩以上の土地全てを買い上げ、小作人に安い価格で払い下げるよう命じた。戦後の改革の中で最も徹底して行なわれ、日本人の生活や思考に広く深い影響を与えた。 
* 小日本主義: 戦前、東洋経済新報の主幹であった石橋湛山は、軍国主義、全体主義を
  「大日本主義」の幻想であると批判し、満洲、台湾などの植民地の放棄や、官僚主義からの脱却、地方分権の確立、自己開発を目指す教育など中心に「小日本主義」の実現を訴えた。戦後、 湛山は、鳩山一郎の後を受けて、第55代総理大臣になり、外交政策では日中米ソ平和同盟の締結を唱えたが、遊説中脳梗塞で倒れて、在任2ヶ月あまりで退任した。後継首相に岸信介が選ばれ、日米安保条約を改定して今日の日米軍事同盟への道を開いた。
* 「緑の党」:正確には「緑の人々」The Greens。核兵器の大量生産とヨーロッパへの配備、地球を無惨に傷つけていく産業社会の仕組み、その中での息のつまるような人間関係の打破を目指し、エコロジーの旗を掲げて1983年の西ドイツ連方議会選挙で初めて議席を得た。福島原発事故の後に行なわれた地方選挙では、第2党に躍進して初めて州首相を出し、メルケル首相の原発推進政策に待ったをかけた。