Archive for 10月 3rd, 2011

脳の神経回路が変化し、新しいパターンが作られるのは、シナプスに強い信号が送られる場合です。そしてそれが起こるには、人の場合には特に強い意志的あるいは情意的インパクトが重要であることを前回述べました。1940年代に、ヘブ(Hebb)という人が、「ふたつの神経細胞の間のシナプスで刺激が繰り返し伝達されるとそのシナプスの繋がりが強くなる」というメカニズムを予言しました。この予言が、後にウサギやマウスなどを使った実験でそのメカニズムが明らかになり、海馬におけるこのシナプスの繋がりが長期にわたって保たれることも分かりました。この現象を専門家は「長期増強」(long-term potentiation, LTP)と呼んでいますが、じつはこれが海馬において獲得される記憶の実態であったのです。

 「長期増強」に関連して、海馬におけるシナプスの繋がりにはもう一つ「連合」という大切な特質があります。これはそれぞれの神経細胞がいくつもの記憶パターンに関係することから当然予想されることです。一つの神経細胞は約1万個の他の神経細胞とシナプスによって繋がっていますので、いま神経細胞Xに神経細胞Aから非常に強い信号がシナプスを通して入ってきたとすると、そのことによってAとXとの間にシナプス結合が生じます。それだけではなく、隣接するBやCの神経細胞から送られてきていた弱い信号も同時に強められて、そこに新しいシナプス結合が起こるわけです。これが「連合」と呼ばれる現象です。池谷裕二氏はこれを鉄道の路線にたとえ、一つの路線に他の路線が乗り入れるのに似ていると言います。私たちは、以前に一度だけ体験したことがすぐに記憶され、後になってその体験の一部の手がかりが与えられると、次々に体験全体が再現されるという経験をします。一つの小さな記憶が連想によって全体の体験が復元されるわけです。このような記憶を「エピソード記憶」といいますが、これは連合という記憶の特質によって生じるものです。記憶力を増大するには、記憶における連合の性質を利用して、小さなエピソード記憶を大きなエピソード記憶に拡大する工夫が有効なわけです。

 次に、海馬において獲得された記憶はどのようにして固定され、保持されるのでしょうか。海馬で獲得された記憶の痕跡がどこかほかの場所に移って、長期記憶として保持されることは確かですが、そのメカニズムはまだ完全に解明されてはいません。しかし、この記憶の固定について意外なことが分かっています。これは以前から一部の研究者の間で言われていたことですが、海馬において獲得された記憶は睡眠中に固定されるというのです。最近出版された理化学研究所脳科学総合研究センター(センター長・利根川進博士)編『脳科学の教科書 神経編』(岩波ジュニア新書 2011)によると、記憶の固定化と睡眠について次のような記述があります。

「ヒトの睡眠中には、約1時間半ごとに、眼球を動かす睡眠が見られます。そのあいだ、筋肉の力は抜けており、脳波をとると、覚醒時に近い脳波となっています。このように、急速眼球運動(rapid eye movement)が見られ、脳が覚醒脳波に近いパターンを示し、筋の緊張が低下している状態をレム(REM)睡眠と呼んでいます。そして、このレム睡眠中にはとくに夢を見ている場合が多いのではないかと考えられています。これに対して、急速な眼球運動が見られず、脳波も覚醒時とは違って遅い波が中心となっている睡眠のことを、ノンレム睡眠と呼びます。睡眠のうちでも、ノンレム睡眠は宣言的記憶に、レム睡眠は非宣言的記憶の固定に重要だと考えられています。」(210−211ページ)

マウスの実験などから、睡眠中に、記憶を獲得したときと似た活動パターンが脳に現れることが分かっています。そしてそれが大脳皮質に転送されるわけですが、どのように転送されてどのように保持されるのかは、まだよく分かっていないようです。しかしいろいろな証拠から、記憶の固定に睡眠が重要であることは疑いのない事実です。たくさん覚えたら、そのあとはよく眠ることです。

なお、先の引用文の中の「宣言的記憶」というのは、その内容を言葉で説明することができるような記憶のことです。「エピソード記憶」はその一つです。これに対して「非宣言的記憶」というのは、記憶の内容が言葉ではうまく説明できないようなものです。たとえば、パブロフの犬の実験で有名な「古典的条件づけ」や、最近しばしば話題に上る、電気ショックを与えるなどの「恐怖条件づけ」がこれにあたります。これらは反射であって、自分の行動を言葉で説明することはできません。また自転車乗りの学習のように、いったん乗ることを覚えると、そのあと乗らなくても身についているような学習の記憶があります。「からだで覚える」技能の多くはこういう記憶が大きな働きをします。このような記憶を特に「手続き的記憶」と呼ぶことがありますが、言語の産出技能はそのような記憶と大いに関係があります。(To be continued.)