Archive for 8月 17th, 2013

(157)「終戦の日」に思う ③

  猛暑の夏が続いている。団地の窓から見上げると地上の湿気で空が薄青い。68年前のあの日もこんな空だったかなあと思う。「戦争が終わった」と告げられ、動員先の工場の地下にあった作業場から出てきた目に陽光がまぶしく、機密書類に石油をかけて焼く炎の輻射熱と熱風が一層暑さを増幅させていた。そう言えば、ラジオで何を言っているのかよくわからない「終戦の詔勅」を聞いた後,いつもの海草入りお粥の給食を受けないまま帰宅を命ぜられ、出てきてしまったことに気がついて、熱風と空腹と精神的混乱で、へたへたと座り込みそうになったことを思い出す。

  戦争が終わった。だから確かに「終戦」だ。しかし、戦争は自然に終わったのではない。日本の無条件降伏によって終ったのである。だから、私にとっては「敗戦」であり、この日は「敗戦の日」なのである。自然に終ったのなら、ああそうか、ですまされるだろう。しかし、敗戦であれば、当然のことながら、その原因と責任を明らかにしなければならない。そうしなければ、この戦争で亡くなった人達は浮かばれないし、学校へも行けず、食うや食わず、薄暗い地下工場で兵器作りに過ごした二度と来ない青春の日々に、どんな意味があったのかもわからず、再び同じ道を歩む可能性さえある。あれから70年近く、私は、ずっとそう思って生きてきた。当然のことがなされない限り、この国には存在の基盤がなく、本当の再生もない、とも考えてきた。

  政府主催の「全国戦没者追悼式」が初めて日本武道館で行なわれた日に、参列した遺族にHNKのアナウンサーが、「御主人(息子さん)は犬死だったとは思われませんか」と問いかけて物議をかもしたことがあった。たしかに、「犬死」という言葉は配慮を欠いていたが、質問の趣旨は真っ当だったと私は思う。茅ケ崎出版が九段下にあるので、私も戦後何回か靖国神社へ行ったことがある。しかし、それは政府が言うように、単に国のために尊い命を捧げた戦没者の霊よ安かれと祈るためではない。戦没者の無念の思いを共有し、再び、国が起こした愚かな戦争で、国民が死ぬような事態を招かぬよう自分が出来ることはしますと誓うためであった。

  私は、戦後70年の節目に向けて、8月15日を「飢餓を体験する日」にしたらどうかと思う。ニューギニアやレイテ戦線、インパール作戦などでは多くの日本兵が餓えて死んだ。
〔2012−9−15 イラワジ川の光る石〕 太平洋戦争の戦死者の半分以上が餓死であったとする説もある。飽食の時代には想像もつかないだろうが、飢餓の時代をすごした我々世代の人間には飢餓の辛さが痛いほどよくわかる。 飢餓によって人間は鬼になる。cannibalismさえ伝えられているのである(大岡昇平 レイテ戦記 筑摩書房)。

 敗戦直後、戦災孤児となり、餓えによって幼い妹をなくし、その体験を「火垂の墓」に書いた野坂昭如は“飢え”について次のように述べている。「飢えを表現するのは難しい。腹が減るイコール飢えだと思っている向きがあるが、それは少し違う。人が本当に飢えに直面した時、人は人でなくなる。早い話、殺人でも強盗でも何でもしてしまう。」(「終末の思想」NHK出版新書)。飢えとはそういうものだ。

  敗戦前後、食糧の配給は一日一人240グラム、小さな茶わん一杯分だった。それも、コメではなく、雑穀や水っぽいさつま芋が多かった。それを、目玉が写るような水ばかりのうすい粥にして啜ったのである。別に強制しなくともよいが、8月15日には、心ある国民はこの量で一日を過ごしてみることにしたらどうか。
 
子供達の中には空腹に耐えかねて、暴れたり、泣き出す子もいるだろう。それを見る若い両親や祖父母達はどんな気持ちになるか。しかも、本物の飢餓は一日で終るのではない。何時終るか,いやもっと悪くなるかもしれないのだ。それを想像してみよ。想像できなければ「火垂の墓」を、「レイテ戦記」を読め。自ら苦しむことによって人の苦しみがわかるようになる。想像力を働かせることによって、未来のために今、何をしなければならないかがわかるようになるだろう。

 飽食の時代がいつまで続くかわからない。飢餓世代の一人で元NHKプロデューサーの農政ジャーナリスト中村靖彦は、「日本の食は砂上の楼閣である」と警告を発している。
(日本の食糧が危ない 岩波新書)(M)

* 終戦の日に思う ① アーカイブ 2011−8−13 ② 2011−8−20

英語の学び方Q & A(2)

Author: 土屋澄男

Q : 英語はどう勉強したらよいのですか。

A : これはよくある質問です。ただし、この中の「勉強」ということばは良くありません。なぜなら、「勉強」とは「つとめはげむこと」と辞書にあるように、一人で机に向かって克己奮励するという暗いイメージがあるからです。英語の学習にはそういう面もあることは否定できませんが、そこには、未知の言葉を自分のものとして自由に使えるようになるという、明るい展望があるはずで、もっと明るく楽しいイメージです。

さて、この質問の真意が「最も効率的な英語の学習法」というのであれば、その答えはほとんどすべての学習者の知りたいところです。『英語教育』(大修館書店)の2011年6月号は、この質問に対して2人の先生に回答してもらっています。回答者の一方は中学校の先生、他方は受験生を対象とする予備校の先生です。それらを読んで、筆者はとくに前者(北原延晃氏)の中学校での実践に興味を持ちました。それをはじめに紹介します。

幼い子どもが歌詞の意味がわからなくても、聞こえてくるままに同じように歌おうとします。それにならって、北原氏は中学生も歌から入るのがよいと言います。北原氏が教えたその年の卒業生は、3年間で46曲もの英語の歌をうたいました。それらの歌詞を合計すると、その量は中学校3年間の教科書の倍以上にもなるそうです。「これだけの英語を楽しく覚えたら頭の中に英語の世界ができあがる」という北原氏のことば決して誇張ではないでしょう。英語を音声言語として身につけるためには、英語のリズムとメロディーを身につけることが大切なことは、いくら強調しても強調しすぎることはありません。

北原氏が次に生徒に取り組ませるのが音読です。生徒のほぼ全員が、教科書本文を毎ページ40回以上音読しているそうです。それだけ音読すれば、頭の中に英語の世界が出来上がるので、初見の英語を見ても正しいイントネーションで読むことができるようになるといいます。絵本などの易しい英語を読み聞かせ、それを暗唱することもできるようになります。暗唱した文をノートに書かせることによって、「音声言語をきちんと正しい形で脳の中に落とし込んでやる」のだそうです。このような指導を受けることのできる中学生は幸いです。英語を聞き、読み、話し、書くという技能を学ぶ基礎がしっかりと捉えられているからです。

しかし上に紹介した中学校での実践はほんの一例で、これがすべてではありません。当然のことながら、英語の学び方は学習段階によって違ってきます。同じ質問でも、どの段階の生徒からの質問かによって答えは違ってくるでしょう。中学1年生と3年生では違うでしょうし、高校生の学習法は中学生とは違ってくるはずです。また、学習の目的の違いも重要です。生徒がどんな目的で英語を学んでいるかによって、その生徒へのアドバイスは違ってくるでしょう。たとえば、英語を聞いたり読んだり、話したり書いたりする技能のどれを中心にするかで学び方は違ってきます。また、聞く・話す・読む・書くという4技能を組み合わせていろいろな活動ができます。どんな活動が出来るかについては、いずれ改めて考えることにします。

ここで、今回の質問「英語はどう勉強(学習)したらよいのですか?」に対する答えとして、どんな学習段階の学習者にも、またどんな学習目的を持った学習者にも、等しく通用すると思われる共通の学習原理を5項目にまとめて提示します。

(1)将来国際人として活躍する自己をイメージしながら学習する:これが出来ない人は英語を学んでも無駄です。国際人とまではいかなくても、自分が日本人以外の人々と交わる可能性については、少し想像力をはたらかせればいろいろ考えられるはずです。

(2)自分の持っている知識や知的能力を最大限に活用する:英語学習の土台になるのは、私たちの母語である日本語です。英語を学ぶことは日本語を忘れることではありません。それは日本語の能力をいっそう発展させることに役立ちます。英語学習ではこれまで学んだすべての知識を利用しましょう。

(3)できるだけ多くの英語に触れる:学校のテキストだけで満足せずに、ラジオやテレビの英語講座を視聴したり、英語のマンガ・雑誌を読んだりして、英語のインプット量を拡大することが必要です。

(4)英語を口にする機会を積極的に求める:学校での音読や暗唱やスピーチなどの活動に積極的に参加するだけでなく、外国人講師などにも自ら話しかけてできるだけ多くの英語を経験するようにする。

(5)英語の練習は実際のコミュニケーション活動の場面を想定して行う:自分独りで行う練習は、ともすると練習のための練習になりがちです。英語を口にするときには、いつもそれが話される場面を想定して言うようにします。辞書の例文なども、ただ機械的に言うのと、それがどういう場面で使われるかを考えながら言うのとでは、大きな違いがあります。(To be continued.)