Archive for 9月 4th, 2012

書かれている英語の文章の行間を読み取るところまで深く理解するには、その文章の書き手の持っている知識や思考プロセスをある程度共有する必要があります。そこでは読み手の持っているあらゆる知識と経験が動因されます。そしてそのとき、読み手の習得している母語が大きな役割をはたすことは間違いありません。英文を理解するために1語1語日本語に訳す必要はありませんが、熟考を要する表現などは日本語に訳してみることも有効と思われます。物事を深く考えるときには、人は母語を必要とするからです。ただし思考のレベルでは、どこまでが英語で、どこからが母語で理解されるのかは明確ではありません。母語として使っている言語と、大人になってから習得した言語とは、脳の中で機能的に一体化していているからです。最近の実験結果は、多くのバイリンガルの言語使用は複合的で、脳に内在する二つの言語システムが言語使用のあらゆる場合に活性化されることを示しています。そうだとすると、思考における第二言語の役割は、その言語の習熟が進むほど大きくなると考えられます。

 以上に述べた文章理解のプロセスに対して、翻訳はまったく逆のプロセスをたどります。つまり、英文という一つの言語形式に内包している意味を抽出してそれを理解するのと、理解した意味をきちんとした形の日本語にして表現するのとでは、プロセスの方向が逆になるわけです。これまで述べたような、英文を理解するためにそれを日本語に置き換えること(これをふつう「英文和訳」と呼んでいます)は翻訳とは言えません。翻訳は、出来上がった日本語訳が自然な日本語として読めるものでなくてはなりません。 ‘Naomi has a sister whose name is Yayoi.’ を、「直美はその名が弥生という姉(または妹)を持っています」では翻訳とは言えません。これは逐語訳の一種ですが、自然な日本語からほど遠いものです。だいたい ‘sister’ が姉か妹か分からないようでは、翻訳はできません。英語の1語1語を適当な日本語に置き換え、順序を並べ変えてそれらしい日本語を作っていくプロセスを翻訳だと考えている人があれば、それは大きな誤解です。行方氏によれば、「前者(英文和訳)は基本的に日本人が英文を理解するための補助的な役割を果たすのに対して、翻訳では訳文が日本語として独立して読めることが要求される」(『英語の読み方』175頁)ということです。

 もちろん、翻訳するためには基となる英文の十分な理解を必要とします。しかし原文を十分に理解したからといって、良い翻訳が出来上がるわけではありません。良い翻訳は、原文の完全な意味理解とともに、それを自然な日本語に仕上げることのできるしっかりとした日本語の表現力を必要とします。したがって、それは英文の読解力とは別の技能と言えます。かつて翻訳は言語の4技能とは別の、第5の技能だと言った人がいますが、その通りだと思います。ですから、バイリンガルがすべて良い翻訳家であるとは言えません。英語から日本語への翻訳では、英語の読解能力と日本語の表現力を兼ね備えている必要がありますから、日本語を母語としている人のほうが有利です。現在の日本には非常に多くの翻訳家が活躍していますが、そのほとんどが日本人であることは偶然ではありません。特に文学は言葉の芸術ですから、外国文学の翻訳は簡単ではありません。文学作品の翻訳家は、外国語と日本語の間の文化や表現形式に関して多くの比較研究を行うとともに、自分が潜在的に持っている文学的才能を顕在化する努力を必要とします。

 上記の文章の最後に述べた「自分が潜在的にもっている文学的才能を顕在化する」という点で、英文の翻訳練習は日本語の表現力の向上に役立ちます。すべての人が文章家になるような文学的才能を持ってはいるわけではありませんが、私見では、日本語を母語として習得する過程で文章を読むことに楽しみを見出した人は、詩人や小説家にはなれなくても、人並みの日本語の書き手になる素地はできています。その素地に新しい外国語の肥料を加えることによって、その人の日本語は新しい思考と表現の手段を獲得します。そのようにして、たとえば夏目漱石のような、新しい近代日本文学の担い手が明治期に誕生したのだと私は考えています。私たちは誰もが漱石のようになれるわけではありませんが、英語の基礎が出来上がった中級または上級の段階では、英文の翻訳練習が思考と表現の幅を広げることは確かなことのように思われます。翻訳は外国語学習の初歩の段階ではできるだけ避けるという原則は守らなければなりませんが、3000語レベルの英語が読める段階に達したならば、英文を深く理解する訓練とともに、翻訳練習を学習の中に取り入れることは決して間違ってはいないと思います。そして現在のさまざまなコミュニケーション場面では、翻訳が重要な役割の一端を担っていることも忘れてはなりません。(To be continued.)