Archive for 9月 22nd, 2012

<英語との付き合い-35> 松山薫

追憶 10話 (3)

7. 動かなかった時計の針
 
  前に、listeningの学習は原子炉の臨界に例えられることがあるという話を書いたが、駅の大時計に例えた人もいた。昔はどこの駅のプラットフォームにも、天井から吊り下げられた大きな電気時計があった。見ていても針がまったく動かない。故障かと思うと、一定の時間が過ぎるとピッ動く。この話を学習会ですると、70近いAさんは、大変気に入ったらしい。私の顔を見ると「わしの時計は何時動くのじゃ」と言う。これは答えられない難問だ。それ
ぞれの蓄積の度合いにもよるし、ピッではなくて、チクタクと動く人もいる。皆勤賞のAさんがある日欠席し、奥さんがみえて、昨日亡くなりましたと告げ、告別式の案内状を置いて帰られた。数人の仲間と告別式に行くと、奥さんが「死に顔を見てやって」と言う。柩を覗いてハッとした。中ほどに私がガリ版で刷り、タコ糸でとじた初・中級用の「基本2000語」の用語集が入れてあった。Aさんが亡くなる前に必ず入れるように奥さんに頼んだのだそうだ。私は軽い冗談だと受け止めていたが、ご本人は本当に時計の針が動く日を目指して一生懸命に勉強していたのだと思うと、胸が詰まった。出棺の時が来て親族の代表が挨拶し、冒頭「英語なんか勉強しなければ、もっと長生きできたろうに、英語が恨めしい」と言って私の顔をにらんだ。

8.先生と呼ぶな。棟梁か師匠ならOK

 私はもともと教師落第生だから、”先生”と呼ばれるのを好まない。特に成人のための英語学習会を始めてからは、人生の先達に当たる人達やいろいろな部門の専門家も大勢いるから、ますます、先生はやめてくれという気持ちになった。ドル円の為替レートの話などしている時に、先に紹介した有名な経済記者の松本さんあたりから、「先生一寸質問が」などといわれたら、○○が縮み上がるだろう。私は英対話を学ぶ人達をサポートするinstructorに徹しよう。英語会のスタッフにも、「オレを先生と呼ぶな」と厳しく言い渡したが、なかなか徹底しない。日本人はどうも先生と呼ぶのが好きらしいし、先生と呼んでおけば、問題がないと思っているようだ。中国のマネか。国会議員などがいい例だ。ある時スタッフの1人から、「それじゃあ師匠か棟梁でどうですか」といわれた。そうか、棟梁か師匠または親方なら考えてもいいなと思った。実は、私が本当になりたかったのは、大工の棟梁或いは細工物の職人であった。家作りの通信教育に入り、土地を求めて伊豆の山中を走り回ったことがあるし、箱根細工の工房などに行くと、思わずのめりこんで、畑宿の狭い道に大型車を長時間止めておいて警察に怒鳴られたこともある。今でも、団地のベランダの陽だまりで小筥などを作っている時は、時間を忘れメシを忘れて家内に迷惑をかけている。しかし、いまだに、棟梁または師匠と呼んでくれた人はいない。

⑨ < 軍人勅諭 >

 旧制中学校に入ると直ぐ渡された軍事教練用の教本の冒頭に「軍人勅諭」が載っていた。
“吾が国の軍隊は世々天皇の統率し給うところにぞある。昔神武天皇自ら大伴、物部のつわもの共を率い、中つ国のまつろわぬ者どもを打ち平らげたまいしより2千五百有余年を経ぬ”
という書き出しで延々と続く。我々はこれを必死で暗記した。佐官級の軍人がやって来る査閲の時に指名されて、間違ったらえらいことになるからだ。軍隊ではこれが憶えられず、古兵に強烈な制裁を受けて脱走し、自殺したり射殺された初年兵もいたという。
 茅ケ崎自由大学の最初のクラスで、この話をして、2千語の初・中級用語集を渡し、それに較べれば、この2千語を憶えるくらいはチョロイものだとハッパをかけたところ、実際に2ヶ月くらいで全部憶えてしまった人がいた。毎時間学習会の最初に語彙のテストをすると、いつも満点なのである。小川信子さんだ。小川さんは医学系統の学部の出身で、英語が専門ではなかったが、とにかく頑張り屋だった。その後の小川さんの進歩はめざましく、後に私が会員の中から初めて講師になってもらった人である。
このような単語の丸暗記が、学問的にどのような評価を受けているのかはわからないが、それが大変効果的な場合があることは確かである。会議・放送通訳者の篠田顕子さんは、11歳で香港の英国系の学校に入った時の体験を次のように述べている。「猛烈な忍耐力で単語を覚えていき、授業がわかるようになるのに半年かかりました。・・・忍耐力が道を開くという体験が、その後の人生を左右する香港でつかんだ宝でした。」(M)