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Author: 松山 薫

< 社説よみくらべ > 5. 「オランダ下院選挙」

5.オランダ下院選挙の結果について

 今年西ヨーロッパの主要国で相次ぐ国政選挙のトップを切ってオランダの議会選挙が3月15日に行われた(下院定数150・比例代表制)。投票率は78%と過去30年間で最高を記録し、国民の関心の高さを示した。
注目された”ポピュリスト“ ヘルト・ウィルダ-ス氏の自由党は予想された下院での.議席倍増はならなかったが、5議席増の20議席を獲得した。一方与党の自由民主党は33議席で第一党の座は守ったものの8議席減らした。また連立与党の労働党は惨敗し、若い党首の率いる緑の党が4議席から14議席に躍進した。

この結果を受けて社説で取り上げたのは、朝日、毎日、産経の三紙のみであった。
各社社説の見出し

朝日新聞社説  「排外主義になお警戒を」
毎日新聞社説  「楽観できぬ極右の失速」
産経新聞主張  「排他主義への“待った”を」

つまり、三紙とも、自由党の失速に一応安堵しながらも、なお今後予想されるフランス大統領選挙やドイツ総選挙への影響を懸念している。

朝日新聞社説は、オランダ自由党の失速は、“オランダのトランプ”と呼ばれるウィルダ-ス党首の具体な政策を欠いた実像が選挙戦で次第に明らかになったこと、政権党の側が国民感情を考慮して反移民ともいえる宣伝をしたことによると分析している。だがそうまでしても、連立与党の中道右派、中道左派
はともに惨敗した。そして、選挙結果は国民の要望に応える処方箋を示してこなかった政権党の怠慢に国民が異議を突きつけたとみるべきであり、ポピュリズムの風が止んだわけではないと主要国の政治家達へ自戒をよびかけている。

毎日新聞社説は、今回の選挙結果でひとまづ大きな混乱は回避できた。フランス、ドイツ、イタリアなど他の欧州諸国首脳らも結果を歓迎している。選挙戦の終盤で自由党が失速したのは、ウィルダ-ス党首が身の安全を理由に公の場に出るのを控えたこと、トランプ政権後のアメリカの混乱がマイナス要因としてはたらいたことなどによる。だが、オランダ同様イスラム系移民の比率が高い隣国フランスでは、反移民の国民戦線ルペン党首の勢いは衰えていない。オランダの選挙結果が欧州全体の流れを変える契機になると楽観するのは早計だとしている。

* 産経新聞「主張」の閲覧は有料なので、ここではとり上げない。

さて、私の意見です。

イギリスの国民投票によるEU離脱とトランプ氏のアメリカ大統領当選で明白になったestablishment
(既得権層、既成勢力)への民衆の不満と憤りは、フィリピンのドゥテルテ大統領への圧倒的支持や数百万人規模のデモに端を発した韓国での朴大統領の罷免、日本では橋下前大阪府知事や小池東京都知事への熱裂な支持の拡大など、メディアの言う“ポピュリズム”の波は世界の主要先進国に広がっている。日本の大手メディアは相変わらずポピュリストを“大衆迎合主義”とか、場合によっては“極右”と銘打っているが、ポピュリズムについては、確たる定義は無く、いくつかの解釈が存在する。

〇 固定的な支持基盤を超え、幅広く国民一般に直接訴えかける政治スタイル 
〇 人民の立場から既成政治やエリートを批判する政治運動
〇 社会を、敵対し合う二つの集団へと分裂させるイデオロギー 
〇 人々の願望や不安、不満に働きかけて人気を集め、体制を変えようとする政治運動
〇 エリートに対する非エリート、一般大衆の妬みの感情をあおり、政治的に利用する手法
〇 エリートが大衆の無知を笑うための政治用語
〇 オランダ自由党のウィルダ-党首自身は「私はポピュリストと呼ばれています。ネガティブな含みのある言葉ですが、もしその言葉が、人々の抱える深刻な問題に耳を傾けていること指すなら、私はそれを侮辱だとは思いません」と述べている。 
( ポピュリズムとは何か 水口治郎 中公新書、日本型ポピュリズム 大嶽秀夫 中公新書  他)

 イギリスに端を発し、アメリカ、そしてヨーロッパやアジアへ広がった“ポピュリズム”の底流にあるのは民衆の怒りだ。民衆の怒りの原因はなんなのか。格差の拡大と富裕層の堕落、それに対して無力な既成政治への絶望感であると私は考えている。

格差の拡大の原因はグローバリズムであり、それは競争至上主義による制限なき自由貿易や“貪欲な”金融資本による市場支配がもたらしたものである。競争至上主義によるグローバルな経済活動の行き着く先は、論理的に一強多弱の世界となる。強者は一強を目指してしのぎを削り、弱者はそのために利用される。

日本の現実を見ても、枚挙にいとまない大企業の不祥事、大企業による中小下請け企業へのコスト削減要求、それによる中小企業の倒産、横行するブラック企業による労働者の使い捨て、なかんずく企業利潤を優先した長時間労働、過労死ラインすれすれの時間外労働月間100時間を政財官が主導して無力な労働組合に押し付ける、これらがすべてグローバリズムに端をはっしていることは、日常の<なぜ>を見逃さない人なら、誰でも気付くことだろう。

ドイツの社会学者ウォルフガング・シュトレークは「格差の広がりは、自由市場の拡大つまりグローバル化がもたらした当然の結果であり、国際競争で生き残るという旗印の下で、国家は市場に従属するようになり、政府は労働者や産業を守ることが難しくなった」と指摘している。
また、フランスの経済学者トマ・ピケティは「一刻も早くグローバリゼーションの方向性を変える必要がある。今そこにある最大の脅威は、格差の拡大と地球温暖化である。・・・関税やその他の貿易障壁を軽減すような国際合意はもうやめにしないか。法人減税などによる財政ダンピングや環境基準を甘くして生産コストを下げる環境ダンピングをやめるべきだ」と提唱し、アメリカ大統領予備選挙でバーニー・サンダースに投じられた票から教訓を引き出すべきだと述べている。

 アメリカ大統領選挙で旋風を巻き起こしたバーニー・サンダースの政策は前回紹介したが、サンダースは選挙の後、次のように述べている。「はっきりさせておこう。グローバル経済は、アメリカでも世界でも、大多数の人びとの役にたっていない。経済エリートが得をするようにと、彼らが生み出した経済モデルだ。私たちアメリカ人は、真の変革をおこさなければならない。そして今の「自由貿易」を否定し、公正な貿易へ移行すべきだ。一握りの億万長者だけでなく、全ての人々の役に立つ国家経済と世界経済を作り出さなければならない」「真の改革はトップからは実現できない。常に底辺から起きるものだ。政治改革は続けなければならない」。 高齢のサンダース氏に次の機会がないことが惜しまれるし、彼のような信念と実績、本質を見据えたスケールの大きな具体的政策を提示する政治家が日本に生まれないことを残念に思う。

現状を根本的に変えなければ庶民は救われないという思い < 現状を根本的に変えることへの不安
という不等式は、今回のオランダ選挙の結果に見るように、いつ逆転するかわからない時代が来ていると私は考えている。(M)

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高校の英語教育を多様化するにはどうしたらよいか――これが今回のテーマです。多様化の方向性は前回示しました。それは「高校の英語を多様化し、英語以外の外国語を選択できるようにするとともに、生徒のさまざまな学習の要求(ニーズ)にこたえること」でした。ここに示した多様化には二つの面があります。一つは、外国語コースの多様化です。つまり、各学校が複数の外国語コースを用意し、生徒が英語以外の言語も選択できるようにするのです。もう一つは、生徒の英語学習に関する多様な目的や志望にこたえられるように、各学校が独自のカリキュラム編成を行うことができるようにすることです。

そこでまず今回は、第一の「外国語コースの多様化」の問題を取り上げ、その問題に集中します。第二の「生徒の英語学習に関する多様化」の問題は次回に述べます。

わが国の学習指導要領では「英語」は「外国語」の中の一つの言語です。文科省はこれまで一貫して(正確には、1951年版「学習指導要領試案」以来)このシステムを守ってきました。そのことに関しては文科省の努力に敬意を表し、これからもこれを守り通してほしいと筆者は願っています。しかし他方では、文科省は「英語」を優遇し、他の外国語については比較的に冷淡でした。その証拠に、これまでの学習指導要領はすべて「英語」についての記述に終始し、他の外国語については単に「英語に関する各教科の目標及び内容等に準じて行う」とだけ記しています。また、以前は生徒全員に英語以外の外国語を第一または第二外国語として履修させるのを特色としている学校が各地に存在したのに、現在ではそういう学校が少なくなっています。

文科省調査(2014年5月年現在)によると、英語以外の外国語の科目を開設している高校の総計は708校で、開設している言語と履修者数は次のようです。

*中国語517校(履修者19,106人) *韓国・朝鮮語333校(11,210人) *フランス語223校(9,214人) *ドイツ語107校(3,691人) *その他の言語(スペイン語、ポルトガル語など)180校(4,908人) *延べ1,360校(履修者合計 48,129人) [注] 複数の言語の科目を開設している学校があるため、学校の延べ数は実数を上回る。

上の表を見て、英語の履修者に比べてそれ以外の言語履修者があまりにも僅少なことに驚きを感じる人は少なくないのではないでしょうか。ちなみに、上記の調査年度における全日制高校在籍数は約322万人ですから、英語以外の外国語履修者48,129人は全高校生の1.5%にすぎません。この中には英語を第二外国語として学ぶ人も含まれますので、高校生の98.5%以上が英語を履修していることになります。タテマエでは「外国語」なのに、中身はほとんど「英語」なのです。

次に大学入試センター試験での「外国語」の受験者数を見てみましょう。ここでも英語がダントツです。当センター公表のデータによると、2015年度センター試験における外国語科目の言語別受験者数は次のようです。

*英語 526,394人 (99.83%) *ドイツ語 148 人(0.03%) *フランス語 134 人(0.04%) *中国語 449 人(0.09%) *韓国・朝鮮語161 人(0.03%)

驚くべきことなのか、当然のことと言ったらよいのか、外国語科目で「英語」を選択する受験者は全体の99.83%を占めています。これではまるで、日本が英語帝国主義によって完全に制圧されてしまったかのようです。そのうち、外国語の試験は英語だけでよいと言い出す人がいるかもしれません(注1)。たしかに、小学校や中学校では、実践上のもろもろの制約のために、複数の外国語を導入することは困難であるかもしれません。しかし高校はこれではいけません。何とかして現状を打破する努力が必要です。そうでなければ、日本はこれからのグローバル化に対処することがいっそう困難になります。すこし冷静になって世界を見渡せば分かるように、この地球は英語だけで回っているわけではないのです。世界には数千の言語が存在し、約4分の3の人々は自分たちの言語で生活しているのです。

さて、わが国で英語以外の外国語教育を盛んにするには、実践上の問題を解決しなければなりません。第一に指導教員を確保する問題があります。しかし、そういう資格を持つ教員を短期間に多数確保することは、短期間には達成が困難です。それは長期にわたる教員養成を必要とします。そこで筆者は、手始めとして、各地域の教育委員会を中心に「外国語教育センター」を設置することを提案します(注2)。そこで土曜日や夏休みを利用して、1講座年間105時間程度の外国語講習会を開催し、それを受講した高校生に単位(3単位)を与え、学校はそれを卒業単位として認めるのです。このようにすれば複数の外国語講座を開催することが可能になり、その講師を確保することも比較的に容易になります。おそらく、学校ごとに計画するよりはずっと実現可能性が高くなるでしょう。もちろんそのためには多大の予算を必要とします。しかし課題の多い入試センター試験に莫大な国家予算を注ぎ込むよりも、はるかに有益です。

また、高校の英語教師にもう一つの外国語を学んでもらって、その人たちに特定言語についての「特別免許状」を発行するという方法も考えられます。英語教師になる人は一般に外国語の適性が高いと思われますので、この案はそれほど奇抜なものではありません。大学で第二外国語として英語以外の言語を学んだ経験を持つ人もかなりの数に上るでしょう。ただし、近年は英語以外の外国語を選択する学生が減少してきて、そういう学生は大学でもマイノリティーになっているのが心配です。大学のこの現状を打破するという点からも、高校生のための外国語講座を拡大することは有意義です。そして英語教員は概して他の言語には冷淡なきらいがありますから、その意識を改善するためにも、彼ら自身も世界の様々な言語と文化についての関心を高めることが必要なのです。

第二に、生徒を英語以外の言語学習にどのように動機づけるかの問題を考える必要があります。これに関して筆者は次のように考えます。大学進学志望者が比較的に少ない高校では、前回にも述べたように、英語の授業に興味を失った生徒たちや、意欲はあっても授業についていけない生徒たちがあふれています。彼らが青春の只中にある高校3年間の英語の授業を無為に過ごすことは、彼らの人生とってのみならず、国家にとっても大きな損失です。この時間をもっと有効な時間に変えなくてはなりません。そういう生徒たちを英語以外の言語の学習に導くことができれば、それは教育改革への大きな展望を私たちに与えてくれます。世界で使用される言語は英語だけではない、他にも様々な面白い言語があることを知るならば、彼らの人生がそこで大きく変わる可能性もあるのではないでしょうか。

(注1現在、入試センター試験に関して憂慮すべきことが起こっています。その業務の効率化のため、当局は試験科目の削減を検討しているというのです。そしてその中に、英語以外の外国語試験を廃止するという案もあると聞きます。どうかそんなことが起きないでほしいと、筆者は切に願っています。たしかに、英語以外の外国語の受験者が現在のように少なければ、センター試験は英語だけでよいという意見が出るのは理解できます。しかし、それだから廃止してしまえというのは乱暴です。教育関係者は自分たちの利益よりも子どもたちの利益を第一に考えて、いま何をなすべきかを決めてほしいものです。

(注2)「外国語教育センター」という名の組織や機関は、現在すでにいくつかの大学に存在します。日本大学文理学部のそれは次のような活動を行っており、今後そのような組織や機関を作ろうとする人の参考になります。

*TOEIC・TOEFLなどの各種検定試験対策 *各種外国語の運用力向上のための課外講座 *外国語学習や海外留学に関する相談 *留学生のための日本語学習相談及び支援

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高等学校の英語教育に多くの課題があるという認識は教員の誰もが持っています。文科省もそのように認識しているようです。そのために、英語の科目が学習指導要領の改訂ごとに大きく変わります。2018年3月に改訂が予定されている高等学校学習指導要領では、英語は「英語コミュニケーションⅠ、Ⅱ、Ⅲ」及び「論理・表現Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ」の6科目になるということです。現行のカリキュラムから「コミュニケーション英語基礎」と「英語会話」の科目が消え、残りのものが6つの科目に改変されることになります。

なぜ高校の英語科目は学習指導要領の改訂ごとに変更されるのでしょうか。その大きな原因は、筆者の見るところ、文科省が教育課程審議会の審議を通して行う英語科目の設定において、「外国語」の存在意義について大局的見地から議論することなく、英語によるコミュニケーション教育をいかに効果的に行うかという、狭い範囲の技術論で問題を解決しようとするからです。それは、たとえて言えば、椎間板の異常から来る腰痛を安価な膏薬で治そうとするようなもので、その効果は極めて限定的です。文科省の有能な官僚たちは、仕事熱心のゆえに「英語コミュニケーション能力の育成」という目前の目標に捕われていて、学習者である生徒のニーズやその真の姿が見えていないのです。

現在の高校の英語指導の問題点については、文科省もそれなりに分析を行っています。昨年8月1日に行われた中教審教育課程企画特別部会の資料がネットに公開されています。それによると、高校における英語教育の課題として次の4項目が挙げられています(①~④の番号は筆者による)。

①生徒の英語力について「聞くこと」「読むこと」「話すこと」「書くこと」全般、特に「話すこと」と「書くこと」の能力。

②英語に対する生徒の学習意欲。

③言語活動全般、特に総合型の言語活動(例:聞いたり読んだりしたことに基づいて話したり書いたりする活動)。

④グローバル時代において英語学習に関する生徒の多様化への対応。

これらの課題のうち、文科省が取り上げたのは①と③でした。これらは技術論で対応できると考えたからです。そこで文科省は、まず「英語コミュニケーションⅠ、Ⅱ、Ⅲ」の科目を設定し、ここで「聞く・話す・読む・書く」を総合的に扱うことにしました。そして次に、現在の高校生が特に「話す」と「書く」の能力に劣るという実態から、「論理・表現Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ」という名の科目を新設し、発信力の強化をはかることにしました。ここでスピーチ、ディベート、ディスカッション、エッセイ・ライティングなどの活動をふんだんに行わせようというわけです。しかしこれは多くの高校教師には手に余る教科になりそうです。なぜなら、教師自身がそういう活動の経験を持っていないからです。

一方、文科省はより本質的と思われる課題を見落として(あるいは意図的に避けて)います。それは②の「学習意欲」の問題と、④の「英語学習に関する生徒の多様化への対応」の問題です。

まず「学習意欲」から見てみましょう。ほとんどすべての教師や英語教育関係者が繰り返し指摘するように、学校英語の改革を阻む最大の問題は、生徒の学習意欲の欠如にあります。この問題を避けて高校における英語指導を語ることはできません。学習意欲という観点から、高校生は3つのグループに分けられます。第1は英語学習そのものに動機づけられている者たちです。彼らは将来英語を必要とすることを自覚しており、機会があれば外国の大学へ留学し、そこで単位を取得し、英語母語話者とやり合うだけの、習熟した英語使用者になりたいと考えています。こういう生徒はTOEICやTOEFLに関心を持っていて、中には実際に受検の経験を積んでいる者もいます。しかしそういう生徒は、通常の高校ではごく一部です。文科省の学習指導要領を理想的な形で実行しようとしているモデル・スクール(スーパー・グローバル・スクールなど)は、そういう生徒たちのためのものです。

第2のグループは大学受験のために必要な英語力をつけたいと考えている者たちです。彼らは第1のグループにくらべると真剣さに欠けますが、当面の目標である大学受験には英語が必須な科目であると考えており、将来的にはできるだけ高い英語力を身につけたいと希望しています。しかし、彼らは受験勉強の効率化のために、英語一科目だけに集中することができません。しかも近年の大学入試は学力試験だけではなく、人格的な要素を重視する選抜方式が広く行われるようになってきたため、英語学習に多くの時間を費やすことができなくなっています。したがって、大学進学を希望する高校生の大部分がこのグループに属すると考えられますが、英語の学力に関しては、文科省が期待するようなレベルに達する者は今後ますます減少するのではないかと考えられます。

第3は英語学習への意欲の乏しい高校生のグループです。彼らの多くは高校を出て就職することを当面の目標としていて、自分たちが何のために英語を学んでいるのかを理解していません。英語ができないとこれからの生活に困ることになると親や先生から聞いても、彼らにはピンと来ないのです。これまで生きてきた十数年間、学校外で英語を使う必要はなかったばかりか、親や周囲の人たちを見ても英語ができないのは当たりまえで、英語を使えたらよいと思うことはあっても、それは夢みたいなものです。しかも、そういう生徒たちの多くは中学校までの英語学習で落伍し、高校の通常の授業がほとんど理解できていません。自分の勤めている学校ではそういう生徒が大部分を占めるという話を、若い教師から聞くことがあります。学習指導要領はこういう生徒について何も触れていません。

しかしこれらの生徒への対策を講じなければ、高校の英語授業はこれからも異常な状態を続けることになります。2015年3月に実施された高校3年生対象の学力調査は、中学程度の英語力しかない高校3年生が約80%を占めることを明らかにしました。なんと高校生の8割が、高校の英語授業についていけないのです。文科省が作成する学習指導要領は、高校での学習に十分ついていくことのできる2割の生徒には役立つのでしょうが、残り8割の生徒たちを指導する高校教師にとっては、それはしょせん絵に描いた餅です。常識的に考えて、中学・高校の教師たちが頑張れば、この数字をいくらか下げることができるかもしれません。しかしそれでは根本的な解決にはなりません。もっと思い切った思考の転換が必要なのです。

ここで多くの英語教育専門家は頭を抱えてしまうようです。しかし筆者は諦めません。この難問を解くヒントは前記の文科省が④に挙げた課題の中にあると考えるからです。その詳細は次回に述べますが、結論だけを先に出しておきます。それは、「高校の英語を多様化し、英語以外の外国語を選択できるようにするとともに、生徒のさまざまな学習の要求にこたえること」です。

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<社説よみくらべ 3> 

「日米首脳会談」と「北のミサイル発射」

2月10日から3日間にわたる日米首脳会談の初日にワシントンで発表された安倍首相とトランプ大統領の共同声明と、最終日の夕食会の席上にもたらされた北朝鮮のミサイル発射の知らせに対する共同会見についての各社の社説をよみくらべてみたい。

< 日米首脳会談共同声明についての社説 >

読売新聞社説  「経済で相互利益を追求したい」
朝日新聞社説  「“蜜月”演出が覆う危うさ」
毎日新聞社説  「厚遇の次に待つものは」
北海道新聞社説 「”親密外交”の代償が不安だ」
河北新報社説  「もの申す関係を構築せねば」
中日新聞社説  「蜜月の影響見定めねば」
京都新聞社説  「友好演出では物足りない」
中国新聞    「同盟の行方 防衛強化に傾かないか」
琉球新報    「″辺野古唯一“ 許されない」

読売新聞社説は、「初の首脳会談としては上々の滑り出し」であるとして会談の成功を讃え、特に安全保障面での「尖閣安保適用」を高く評価している。そして日本もアメリカに頼るだけでなく「積極的平和主義」の下で自衛隊の国際的な役割を拡大するよう求めている。一方経済問題、特に貿易面では日米が同床異夢の面もあるので今後のアメリカの出方を注視する必要がるとしている。
朝日新聞社説は、経済や安全保障問題で一定の合意が得られたことは日本にとって安心材料だと言えると一応は評価しつつ、国際的な関心事であったアメリカを多国間の枠組みに引き戻せるかどうかについては、安倍首相が全力を尽くした形跡はうかがえないと失望している。そして、対米一辺倒の外交は危ういとして、アメリカの要求に便乗した軍事費の拡大に懸念を表明し、中国、韓国、豪州、東南アジア諸国などとの多角的、多層的な関係を深めるよう求めている。
毎日新聞社説は、経済と安保が中心議題だったが、アメリカ新政権下の日米関係は順調に滑りだしたように見える。自動車や為替操作など懸念された経済問題についても特段に注文は無く共同声明は日本側にとっておおむね満足のいくものだったとしている。ただ、先に日本側の取りたいものをとらせ、今後アメリカ側の要求を拒めなくする戦術かもしれないと疑念を示している。
北海道新聞の社説は、トランプ大統領から懸念された強い対日批判や要求は出ず、安倍首相はひとまず胸をなで下ろしているに違いないと推測しながらも、今後アメリカが同盟強化の見返りに、貿易投資などで譲歩を迫ることは十分予想され、安全保障面でも新たな要求に警戒が必要で、会談結果を手放しで歓迎することはできないとしている。
河北新報社説は、第一歩は友好的にというのは当然と言えば当然か。だが大統領が持論を撤回したわけではあるまい。絆という「総論」を確認しつつ、摩擦を生みかねない「各論」へ深入りを避けた印象だ。
安倍首相は施政方針演説で「自由、民主主義、人権、法の支配」という価値観を共有する国と連携していくの述べたが、トランプ政権で大きく変質したアメリカに、自らの価値観に基づいて物申す関係を築くべきだと注文を付けている。
中日新聞社説も、道新の社説と同じく、安倍首相にとっては胸をなでおろす会談だったと言えるのではないかとした上で、安全保障に関連して、普天間の代替は辺野古が唯一の解決策と声明に書き込まれたことは残念であり、「国外・県外への移設の検討をもとめている。また尖閣諸島の安保条約5条の適用は当然のことで、政権が交代するたびに確認するのは、かえって条約の脆弱性を示すことにならないのかと疑問を呈している。
京都新聞の社説は、安保から経済まで両国の友好協力関係を推進する基本的な立場は確認できたとする一方、これは両国が友好関係を演出した結果で、防衛面での負担や為替政策など、具体的な問題での協議が始まれば、摩擦が生ずる懸念は消えないと述べている。
中国新聞社説は、首相はほっとしていようが、首相が目指す相互利益の関係を構築できるかどうかは見通せない。同盟強化が通商交渉の取引に使われる懸念も打ち消せないとしており、防衛費が聖域化するのではないかと案じている。
琉球新報社説は、日米首脳が沖縄の頭越しに、辺野古が唯一の代替案と規定するのは許されない、辺野古の海は日米への貢物ではないと怒りをあらわにしている。

このように社説の多くは、首脳会談が総論で意見の一致を見たことを一応評価しながらも、今後の各論で対立が生ずるのではないかと懸念している。また、これら社説の多くは、トランプ大統領の「7か国からの移民の一時入国差し止め」という大統領令を安倍首相が「内政問題だ」として言及しなかったことについて、日本の国際的なイメージを低下させるのではないかと指摘している。さらに、一部の社説は、会談の直前というタイミングをとらえて、トランプ大統領が中国の習金平主席と電話で会談し、「ひとつの中国」の原則を確認したこのに触れており、朝日新聞は「”日米蜜月”が中国を抑止し、日本を守るという発想だけでは、もはや通用しない」と指摘している。

ところで、安倍首相の3日間の訪米を締めくくる12日の夕食会の席上に、北朝鮮ミサイル発射の知らせがお祭りムードの会談に冷や水を浴びせた。両首脳は緊急記者会見に臨み。安倍首相が「断じて容認できず」という短い声明を読み上げた後、トランプ大統領がこれに和し、待ち受けた記者の質問には答えず、すぐに退場した。

< 北朝鮮のミサイル発射に対する共同会見についての社説 >

読売新聞社説   「日米同盟を試す不毛の挑発だ」  
朝日新聞社説   「北朝鮮の挑発 日米韓のゆるみを正せ」
毎日新聞社説   「冒険主義の挑発やめよ」
北海道新聞社説  「挑発止める連携を急げ」
中日新聞社説   「監視と包囲さらに強く」
中国新聞社説   「危険な挑発、許されない」
西日本新聞社説  「米新政権は指導力発揮を」
琉球新報社説   「北・米の「敵対関係」改善を」

読売新聞社説は、北朝鮮は米本土に達する核ミサイルを完成させ、核兵器保有国の立場でトランプ政権と対等の立場で交渉に臨むという目標に一歩近づいたことを誇示したいのだろう。日米は多層的なミサイル防衛網を構築することが急務だ。と述べている。
朝日新聞社説は、発射から間をおかず、日米の首脳が並んで記者会見し結束を国際社会に示した意味は大きいが、強いメッセージを両首脳がともに発すべきだった。米・韓の政治が不安定な今、日米韓のゆるみを正し、さらなる連携を促すのは日本の役割だとしている。
毎日新聞社説は、日米首脳が緊急の記者発表で一致したメッセージを発信したのは適切だった。重要なのはトランプ政権が北朝鮮の核・ミサイル開発を絶対に許さない断固たる意思を示すことだ。オバマ政権はその点で失敗した。日本は利害を共有する韓国と共にトランプ政権への働きかけを強めよと訴えて
いる。
北海道新聞社説は、国連安保理の制裁決議の順守を徹底することが重要だ。トランプ氏は選挙期間中に金正恩氏との対話に意欲的ともとれる発言をしたが、アメリカが北朝鮮に安易な宥和策をとり、北東アジアの平和と安定を脅かす核保有を認めることがあってはならないと述べている。
中日新聞社説は、トランプ政権が北朝鮮制裁をさらに強めるのか、それとも対話を模索するのか、具体的な政策が動き出すのは今年下半期になるのではないか。三月には定例の米韓合同軍事演習実施され、
北朝鮮がさらにミサイルを発射する恐れがある。米韓は軍事力の差を誇示して挑発を抑え込みながらも、偶発的衝突が起きないように慎重を期すべきだ。と
中国新聞社説は、トランプ氏は選挙戦で北朝鮮との対話や在韓米軍の撤収の可能性に言及していた。ミサイル発射は、オバマ世間から続く北朝鮮への「敵視政策」の転換の可能性を含め、新政権の北朝鮮への東アジア政策をみきわめようとしたのだろうか。トランプ大統領がどう向き合うのかは不透明だが、粘り強い対話を第一に対応を練り直したいと提案している。
西日本新聞社説は、ミサイル発射は日米首脳会談で「北朝鮮の核・ミサイルからの防衛は極めて優先度が高い」など日米が対北朝鮮で連携をアピールしたことへの反発なのだろう。同時にトランプ政権の本気度を「瀬踏み」する意図があることは間違いないと推測している。
琉球新報社説は、ミサイル発射は、最近の日米韓による軍事的包囲網強化への危機感を示したものだろう。断固たる措置は当然だが、ミサイル開発への軍事的対応の強化が新たな北朝鮮の挑発を招き軍事的緊張が高まる悪循環に陥ることが心配だ。根本の問題であるアメリカと北朝鮮の敵対関係を改善する道筋を模索すべきだ。と述べている。

大方の社説が北朝鮮の暴挙を激しく非難し、強い態度で臨むよう促している中で、中国新聞と琉球新報の社説が対話の必要性に触れているのが注目される。武力衝突が起きれば、在日米軍基地の74%が集中する沖縄が攻撃目標となることは必至だから、沖縄の懸念は当然だろう。

さて、私の感想と意見です。

 主役の皆さんには失礼な話ですが、今度の「会談」と「発射」についての報道を見たり読んだりしているうちに、私は少年の頃、親の目をかすめて通ったドサまわりの小屋掛けの芝居を思い出しました。

新しくのし上がった大親分と先々代からの古い子分の代貸しが“シマ割りやテラ銭の分け前”について話し合い、代貸しがみっともないほどにおもねった挙句、シャンシャンシャンと手打ちを終わり、大親分がやらせている旅館の豪華な座敷で女房や子分どもをはべらせて上機嫌で酒を酌み交わしているところへ、昔から手を焼いていた一匹狼の無法者のやくざが、代貸しの縄張り近くまで入り込んで、長どすを振り回して試し切りをしているという知らせが入った。二人ともすっかり酔いがさめて、顔をみあわせたが、突然のことでどうしたらよいかよい知恵が浮かばない。だが子分や虎視眈々と成り上がり者の大親分の隙を狙う親分衆の手前黙っているわけにもいかない。外へ出てみると噂を聞いた野次馬が集まっていた。代貸しが、親分に促されて「やくざ仲間の風上にも置けねえ奴だ。断じて許せねえ。皆で懲らしめてやる」と啖呵を切って見せると、大親分も「おめえと俺は杯を交わした一心同体の仲だ、目いっぱい力をかすぜ」と応じたが、さていったいどうなることやら。というのが感想です。

続いて起きた“金正男毒殺”事件は、「朝鮮王朝実録」にもとづく李王朝の韓国歴史ドラマの筋立てにそっくりです。これらのドラマでは、絶対的権力を持つ王が、謀反を恐れて犯人を仕立て上げては殺すのです。殺されるのはたいてい王の異母兄弟とそれに加担したとされる親族や側近で、追放された挙句、側近は八つ裂きなど残虐な刑に処され、異母兄弟は毒殺されることになります。 時には謀反騒ぎの裏に宗主国であった「清」の影がちらつきます。金正恩委員長の義理の叔父で”金王朝“のナンバー2だった張成沢行政部長は中国から帰国したあと、反逆罪に問われ機関銃で粉々に”爆殺“され、14歳年上の異母兄は常に命を狙われていたと言われます。

これらの悲劇は、専制的な権力を持ちながら、或いはそれ故に、孤独と猜疑心にさいなまれる独裁者
によって強行されました。独裁者はこうして国内では恐怖政治を敷き、外国に対しては強硬な政策をとります。そうしなければ政権を維持できないからです。朝鮮王朝の場合、外敵は女真と日本(倭寇)でした。

北朝鮮ではこうした政策の結果、ほとんどの国民が先軍思想に洗脳され、それを先導する「将軍様」に絶対服従を誓っているようです。先年北朝鮮が「光明星1号」ミサイルを打ち上げた際の映像で、見上げる若者の目に涙がうかんでいるのがわかりました。それは70年前、大東亜戦争はアジア解放の聖戦であると教え込まれ、白馬にまたがって皇軍をみそなわす大元帥陛下の御姿に深く感動していのちを捧げることを誓った私の姿に重なってみえました。将軍様とそれを取り巻く勲章だらけの軍人達の映像を見る度に、私は「陸には猛虎の山下将軍、海には鉄血大河内、見よたのもしの必殺陣、出てこいニミッツ、マッカーサー、出てくりゃ地獄へ逆落とし」と本気で歌った昔を思い出します・

このような心象風景をバックに各社の社説を読んでみました。 
     
おおかたがアメリカの核兵器を含む圧倒的な軍事力で北朝鮮の軍事挑発を抑えこむことを期待し、同盟国である韓国と日本が一体となって協力するよう求めています。
私も北朝鮮が極めて特異な国であり、その国が核ミサイルを持つことの危険性は十分に認識しているつもりです。(桐英会ブログ「北の核 1~7」)。今の北朝鮮がかつての軍国主義日本とあまりにもよく似ていることを思うと、外敵の圧迫を受ければ受けるほど国民は貧しさに耐えて一致団結するだろうし、指導者がそれをバックに無謀な行動に出ることは十分に考えらます。北朝鮮が核ミサイルを完成した場合、日本への攻撃を防ぐことは不可能でしょう。核抑止という実際には機能しない考え方に頼るのではなく、外交によって事態を解決する努力を優先すべきであると思うのです。

中国新聞と琉球日報の社説が外交による解決を主張しており、琉球日報は「北朝鮮を仮想敵国とする米韓軍事演習の中止」など米国が敵対政策を転換する中から、「休戦協定を平和協定に改定する対話路線を」という木村朗鹿児島大学教授の提案を紹介しています。

日本は小泉政権時代に、北朝鮮と平和条約交渉のための政府間協議を始めましたが、北朝鮮が拉致被害者の偽の遺骨を送ってきたとして中断しました。拉致被害者についての協議も中断し、老い行く家族達の悲痛な願いにも拘らずまったく進展の目途は全く立っていません。アメリカの歴代政権が北朝鮮との直接対話を避けてきたため、日本が単独で協議を再開することはむ塚しかったのでしょうが、トランプ政権が対話に前向きともとれる発言をしている今が対話再開のチャンスであると思います。(M)

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『英語教育』3月号第1特集のテーマは「英語教師のためのPDCAサイクル―今年度目標の達成度を振り返る」となっていて、それに関して9点の記事が掲載されています。私はそれらを一読して違和感を持ちました。ほとんどの記事において、「PDCAサイクル」との関連が不明だったからです。一部の記事はPDCAに関係づけていましたが、特集のテーマに合わせて無理にそうしているように思われました。この特集の主要テーマは、むしろ、副題になっている「今年度目標の達成度を振り返る」にすべきでした。そうすれば、ほとんどの記事がすんなり収まりました。一年間の指導を振り返るのにPDCAを持ち出す必要はなかったのです。これは特集の企画段階で、雑誌編集部にPDCAサイクルが適切に機能しなかった結果です。

この特集を読んで気がついたことは、「PDCAサイクル」とは何かについての理解が執筆者によって違っていることでした。おそらく雑誌編集者の理解も違っているのでしょう。そもそも、この用語はどうやら文科省が最近好んで使っているもののようです。昨年12月に公表された中教審答申の中に次のような記述があります。「平成28年度より、都道府県ごとに『英語教育の改善プラン』の策定・公表を行い、生徒・教員の英語力等の目標を設定、管理の上、必要な研修等を実施し、PDCAサイクルの構築を推進している。」(答申p.202)というのです。つまり、文科省は学校の生徒や教員の英語力を高めるために必要な教員研修などを都道府県ごとに行うことを企画しており、そのプランを設定し管理するための事務的手続きを公式化しようとしているのです。その一連の手順を「PDCAサイクル」と呼んでいるわけです。

いったい「PDCAサイクル」とはどういう意味を表す用語なのでしょうか。ウィキペディア百科事典は、「事業活動における生産管理や品質管理などの管理事務を円滑に進める手法の一つ。Plan(計画)→Do(実行)→Check(評価)→Act(改善)の4段階を繰り返すことによって、業務を継続的に改善する。」と書いています。おそらく文科省は、都道府県における教員研修の計画・実施などの業務に関して、「それを計画し、実行し、評価し、改善して再実行する」という一連の定式化された手順を繰り返すことによって、客観的に目に見える形で彼らの業務を改善することができると考えたのでしょう。それがPDCAサイクルというわけです。じつに巧妙な戦略です。

しかしこれを教育活動に応用するときには、よくよく注意をしなければなりません。なぜなら、教師の仕事は文科省や教育委員会の管理事務のそれとは大きく違うからです。最も大きな違いは、生徒はモノではなく、教師によって完全に管理されるべきものではないのです。そのことは『英語教育』誌の記事にも書かれています。最初の執筆者・江原美明氏は「『振り返り』の仕方を振り返る―新たな出発に向けた5つの視点」の末尾を次のように締めくって注意を促しています。「本稿で紹介した5つの視点は、PDCAで言えば全てPの段階で行うべきことです。生身の人間である教師、生徒、同僚が授業という場を通して学び合い、さらに学校内外での研修を通して学びと出会いを経験する。そこには製品の品質管理にはない、人と人とのやりとりの結果生まれる学びのプロセスがあります。本稿が、生身の人間の学びのプロセスを振り返るための一助になれば幸いです。」(p.12)

また2番目の記事の執筆者・渡部良典氏は、「PDCAサイクルを取り入れた評価―CAN-DOリストを活用して」の中で次のように述べています。「PDCAサイクルは、基本的には仮説―検証―発見という科学的操作の基本を具体化したものである。Pの段階の立案が仮説であるとするならば、最初から完璧な目標設定を示した記述文の集合を作成する必要はない。徐々に習得することを促すようにすべきである。一夜にして飛躍的な伸びをみせることを過剰に期待してはいけない。機会を与え辛抱強く見守る必要がある。」(p.15) ちょっと分かりにくい文章ですが、つまり、学習目標を設定する場合に、教師が自分の設定した目標を性急に追求しようとすると生徒がついてこれなくなるので、生徒の自主性を尊重し、その目標に至るプロセスを大事にして辛抱強く指導する必要があるということのようです。教師が文科省にならって管理主義に陥ってはならないのです。

3番目以降の7つの記事は、それぞれの筆者が今年度の授業を振り返っての報告(及びそれを次年度の指導にどうつなげるかの見通し)が主体になっています。多くの筆者が自分の振り返りをPDCAサイクルにどう結び付けようかと苦労をしたようで、読んでいてしばしば気の毒に思いました。

(付記)「PDCAサイクル」という用語を文科省や教育委員会が管理事務の能率化のために使うのは彼らの自由でしょう。しかし学校における教育活動にこれを適用する場合には慎重であってほしいと思います。教員が自分の教育活動にこの用語を用いるのは望ましくありません。また、本文で示唆したように、その必要はないと思われます。

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現在行われている中等教育の英語教育にはどのような問題があるでしょうか。これからの教育を考える場合には、現在の問題点を正確に把握しておく必要があります。昨年12月21日に出された中教審答申は、現行の学習指導要領の「外国語科」の課題について次のように述べています。

「中・高等学校においては、文法・語彙等の知識がどれだけ身に付いたかという点に重点が置かれた授業が行われ、外国語によるコミュニケーション能力の育成を意識した取組、特に「話すこと」及び「書くこと」などの言語活動が十分に行われていないことや、生徒の英語力では、習得した知識や経験を生かし、コミュニケーションを行う目的・場面・状況等に応じて適切に表現することなどに課題がある。」(答申p.193)

この文章は文科省でまとめたものでしょうから、これが現時点での文科省の現状認識であると言って間違いないでしょう。この文章は、私見ながら、大方の賛同を得る内容のものだと言えるでしょう。

次に、上の課題に対して文科省がどのような改善策を考えているかを見てみます。その結論部分には次のように書かれています。

「外国語の学習においては、語彙や文法の個別の知識がどれだけ身に付いたかに主眼が置かれるのではなく、児童生徒の学びの過程全体を通じて、知識・技能が、実際のコミュニケーションにおいて活用され、思考・判断・表現することを繰り返すことを通じて獲得され、学習内容が深まるなど、資質・能力が相互に関係し合いならが育成することが必要である。」(答申p.194 <下線は筆者>)

読者の皆さんはこの難解な文章(特に下線部分)を解読できますか。筆者は最初この部分だけを抜き出して読んでみて、よく理解できませんでした。この前後の文章を幾度も読んでみても、結局よくは分かりませんでした。要するに、「外国語の学習においては、単に語彙や文法の知識をばらばらに身に付けるのではなく、実際のコミュニケーション活動の経験を通じてそれらの知識・技能が活用できるようにすることが必要である」ということのようです。それにしても、なぜこのような分かりにくい文章になったのでしょうか。

その原因を掘り下げると、第1に、この文章を書いた文科省の担当官(たち)が、自分たちの経験に基づいていない未消化な知識を、確信のないまま文章にしたからだと推定されます。ここに出てくる「知識・技能」、「思考・判断・表現」、「資質・能力」などから、これは中教審答申の核心的な教育理念を表す言葉を書き連ねて、それらを英語の目標に強引に結びつけようとしたと判断できます。まるで学生が書いた一夜漬けのリポートのようです。思考、判断、表現などは学びのプロセスに関する問題であって、ここに列挙するようなものではないのです。だいたい、この答申が200頁を超える大部なものであることも気になります。中身が厳選されておらず、論理に飛躍が多く、内容が薄いのです。今年3月末に文部科学大臣の名で告示される予定の新学習指導要領には、忙しい一般の教師にも理解できるように、簡にして要を得る表現にしてもらいたいものです。

第2に、より根本的な問題として、英語教育改革に関する中教審・文科省の考えと教育現場の意識との間には、大きなギャップが存在します。そのことが現在の混乱を招く主要な原因となっているように思われます。そもそも前世紀後半までのわが国の英語教育は、中学・高校における英語は基礎教育であって、実践的なコミュニケーション能力の育成までは手が届かないという暗黙の了解がありました。少なくとも英語教育関係者の多くはそのように考えていました。これに対して経済界や政治家の間からは、早くから、もっと役に立つ英語を学校で教えるべしという声が出ていました。1990年代になって、それが学校英語教育への要求として声高に叫ばれ、世論もそれを支持しました。

そして文科省が学習指導要領に「実践的コミュニケーション能力(の基礎)を養う」(丸括弧内は中学校)と明記したのは1998年の改訂版でした。次いで2000年に開かれた「21世紀日本の構想懇談会」が、これからは英語とコンピュータが必須だと迫りました。文科省はそれを受け、「『英語が使える日本人』の育成のための戦略構想」(2002年)を立案し、その実現に向けて素早く動き出したのでした。これ以後、文科省はこの転換を急激に促進し、次回の学習指導要領改訂(2008年度)では小学校高学年に「外国語活動」を新設し、英語基礎教育の最初からコミュニケーション能力の育成を図る方針を徹底しようとしました。明治以来の長い伝統的な英語教育の歴史に比べると、この20年間に起こった変化は非常に急激です。教育の現場はその変化について行けません。現場の意識はそれほど急速には変わらないのです。

文科省はそういう現場の意識を変えようとしています。しかしそれは容易なことではありません。文科省は政府や財界からの圧力のゆえに焦っています。その結果、英語の目標設定に関して述べている事柄が、現場の実態から遊離してしまったわけです。今回の目標設定にも、文科省はCEFR(ヨーロッパ共通参照枠)の基準を生徒の学習目標として取り入れ(注)、その基準への達成度の判定に英検などの外部テストを活用しようとしています。筆者の見るところ、CEFRというのはあくまでEUの統合を円滑に進めるために開発されたたもので、日本の学校における教育的伝統や教科課程とはまったく異なる条件下で作成されたものです。そういうわけで、日本の文科省が主導してCEFRを義務教育である小・中学校の英語教育にまで適用し、その考えに基づいて作成された英検テストなどで学力を判定することには疑問を持たざるを得ません。

もちろん、CEFRは多くの研究者たちの長年にわたる努力の末に作成されたものですから、私たちの英語教育にも参考となる事柄は多々あります。日本の大学でもいくつかの大学(上智大学など)がそれを利用して「CAN-DOリスト」を作成し、外国語の授業改善を図っていると聞きます。日本英語検定協会(英検)もそれを利用して「話す」「書く」を含めた4技能の学力測定を改善しようとしています。それはそれで結構な試みです。しかし、日本の英語教育はヨーロッパに住む人々のための英語教育とは条件が大きく違います。その違いを論じると長くなりますが、決定的な違いは、日本では日本語だけで生活することにほとんど不自由を感じないことです。CEFRが日本の大学レベルの学生には有効であっても、小・中・高生の英語力を適切に評価できるかどうかについては、まだ科学的な検証が十分になされていません。この点で、文科省はあまりにも性急だと批判されて然るべきです。

そして文科省が、児童生徒たちの英語力を英検に頼るような記述をすることも大きな問題です。英検はそれほど信頼性の高いテストとは考えられません。4技能の新しいテストもまだ始まったばかりで、その妥当性や信頼性の検証はこれからです。文科省が音頭を取って、中学生の50%を英検3級程度、高校生の50%を準2級~2級程度にまで引き上げることを国の目標にするなど、正気の沙汰とは思えません。

(注)中教審答申の「第2章各教科・科目等の内容の見直し12.外国語」(pp.193-205)には、国際的基準としてのCEFRについて次のように説明されています。その最初の部分は次のようです。

「CEFR(Common European Framework of Reference for Languages: Learning, teaching, assessment外国語の学習・教授・評価のためのヨーロッパ言語共通参照枠)は、語学シラバスやカリキュラムの手引きの作成、学習指導教材の編集、外国語運用能力の評価のために、透明性が高く、包括的な基礎を提供するものとして、20年以上にわたる研究を経て、2001年に欧州評議会が発表した。CEFRは、学習者、教授する者、評価者が共有することによって、が帰国後の熟達度を同一の基準で判断しながら「学び、教え、評価できるよう」開発されたものである。国により、CEFRの「共通参照レベル」が、初等教育、中等教育を通じた目標として適用されたり、欧州域内の言語能力に関する調査を実施するに当たって用いられたりするなどしている。・・・」

なお蛇足ながら、中教審答申にこのような啓蒙的な説明文が長々と入っていることに奇異な感じがします。

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教材の問題

昨年12月21日に文科相に提出された中教審答申の中には、小学校外国語科の教材に関して、「国は、教科化に対応した教材を開発し、平成30(2018)年度には先行して活用できるようにする必要がある」と書かれています。実際に、現在すでにその仕事が始まっているようです。そうでなければ、2020年度から使用する英語教科書が間に合いません。小学校の英語教育に関係する人々は、どんな教科書が現れるのかを心待ちにしていることでしょう。

しかしここにいくつかの大きな問題が存在します。一つは、文科省の初等中等教育局には英語教材を開発するための人材が集められているようですが、どんな教材が作られるにしろ、文科省作成の教材はその後に民間の教科書出版社で作成される教科書の作成基準のようなものを提供することになります。実際に、文科省は2014年度に小学校高学年用の「Hi, friends! Plus」という補助教材を開発し、2015年度から研究開発校で使用させています。また「読む」「書く」に関する基礎を養うための補助教材もすでに作成し、そのデジタル教材を地方教育委員会に配布し、2016年度には研究開発校で使用させてその検証を行っています。このように、今回の小学校高学年の英語教科化の手順のすべては文科省主導で行われています。まさか文科省は小学校の英語教科書を国定にするつもりではないでしょうが、現在の進行状況からすると、結果的には、民間教科書会社で作成される教科書を統制し、その多様性を失わせるのではないかと危惧されます。

そればかりではありません。そのスケジュールの忙しさは尋常ではありません。まさに一刻を争うビジネスの様相を呈しています。日本英語検定協会(英検)が発行している『英語情報』(2016 2・3月号)によると、文科省は小学校の英語教材に関して次のようなスケジュールで動いているとのことです(注)。すなわち、2015・16年度に新たな補助教材の配布・検証が行われ、2017年度に教科書が作成され、2018年度に教科書検定がなされ、2019年度に教科書採択がなされるというのです。小学校5・6年生のための新しい教科書作成に、2017年度の1年間しか当てられていません。なんとあわただしいスケジュールなのでしょうか。全体計画を立案する人たちは机上の計算合わせでどうにでもなるのでしょうが、これを実行する人たちはたまったものではありません。

この間、教材作成に加えて、小学校における「英語教育推進リーダー」の育成研修や、十数万人にのぼる小学校教員を対象とした英語指導力向上のための研修が行われています。しかし、そこでまともな研修が行われているとは考えられません。数回の研修で英語力や指導力が向上するはずがないからです。おそらく、文科省作成の小学校英語教材(デジタル教材、ワークシート、活用事例集等を含む)の使い方を学ぶことになるのでしょう。そうして小学校の先生方を鼓舞し、「私たちも教材をうまく利用すれば英語を教えることができるのだ」という自信を持たせようとするのでしょう。こうして小学校の「外国語」は2020年度の開始を目前にして、まさに突貫工事が強行されています。しかし文科省は、それによって生じる負の効果を計算に入れてはいないでしょう。

評価の問題

中教審答申は、小学校高学年の教科としての外国語教育における「観点別学習状況の評価」について、中・高の外国語科と同様に「知識・技能」、「思考・判断・表現」、「主体的に学習に取り組む態度」の3観点により行う必要があると述べた上で、その「評定」について次のように書いています。

「小学校高学年の外国語教育を教科として位置付けるに当たり、「評定」においては、中・高等学校の外国語科と同様に、その特性及び発達の段階を踏まえながら、数値による評価を適切に行うことが求められる。その上で、外国語の授業において観点別学習状況の評価では十分に占めることができない、児童一人一人のよい点や可能性、進歩の状況等については、日々の教育活動や総合所見等を通じて児童に積極的に伝えることが重要である。」(下線は筆者)

新設される小学校高学年の「外国語」の評価について、中教審答申がここまで踏み込んで記述するのは奇異な感じがします。現行の中学・高校の学習指導要領には、評価についての記述はありません。もちろん、中教審答申の記述がそのまま学習指導要領に記載されるのではないのでしょうが、今回改訂される学習指導要領には評価に関して何らかの記載がなされる可能性があります。もしそうなると、学習指導要領は法的拘束力を持つものですので、その影響は絶大です。全国一斉にそのようにすべしということが徹底されるわけですから、評価に関して各学校で工夫をする余地がほとんどなくなり、教育の画一化はいっそう決定的なものとなります。小学校における「外国語」という新しい教科の理念や方法がまだ定まらない教育現場において「数値による評定を適切に行うこと」が求められるとは、従来の教育現場の常識では考えられないことでした。

さらに、そこから生じる波及効果を考えなくてはなりません。小学校において英語の評価が他の教科と同様になされると、それは中学入試に大きな影響を与えることは確実です。おそらく、私立学校の多くが中学入試に英語を導入するでしょう。小学校高学年の現行の「外国語活動」とは違って、教科としての「外国語」では「読む」と「書く」の指導がなされます。文科省はもはや、中学入試に英語を課さないように全国の私立学校に要請することはできないでしょう。その結果がどうなるかを推測してみると、難しい中学入試を目指して英語の学習に励む一部の子どもたちがいる一方で、そこから取り残され、小学校段階で英語の学習に興味を失ってしまう子どもたちが量産されることになります。筆者が想像するのは、およそ次のような英語学習格差の様相です。

公立小学校での英語教育は、その専門家が指導する学校とそうでない学校とで大きな差が生じるでしょう。また、高学年での週2単位の指導時間をどのような形態にするかによっても、指導効果に相当の格差が生じるはずです。それは学校の指導体制の不完全さによって生じる環境的格差といえます。次に、子どもの家庭経済の状況によっても大きな格差が生じます。それはいわば社会的格差です。小学校での英語の授業に満足できない子どもやその親たちは、もし家庭経済が許すならば、塾に通わせることを考えるでしょう。小学校高学年の英語が教科化されていちばん喜んでいるのは学習塾・進学塾および英検です。しかし塾に通うには金がかかります。英検を受けるにも受検料がかかります。貧困家庭はもちろん、家計に余裕の乏しい多くの家庭では塾や英検を諦めなければなりません。かくて小学校の英語教育は、その卒業時において、ごく少数のエリートと残り大部分の非エリートとを選り分けるという、選別の教育に堕すことになります。もしそうなったら、日本の未来に希望はありません。

(注)この情報は文科省初等中等教育局外国語教育推進室から得た資料に基づいています。

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< 社説よみくらべ > 2.「トランプ新大統領の就任演説」

2.トランプ新大統領の就任演説

 世界中の注目の中で、“不動産王”のドナルド・トランプ氏によるアメリカ合衆国の新政権が発足し、歴史に記録される就任演説がおこなわれた。就任演説に対する各社社説の見出しは次の通り。

讀賣新聞 「価値観と現実を無視した演説」
朝日新聞 「内向き超大国を憂う」
毎日新聞 「分断を世界に広げるな」
北海道新聞「国際秩序の維持に努めよ」
河北新報 「強いられる海図なき船出」
中日新聞 「建国の精神を忘れるな」
京都新聞 「“国益”至上主義では危ない」
中国新聞 「一国主義 懸念浮き彫り」

 社説の見出しから容易に推測されるように、トランプ大統領の就任演説については、各社ともおおむね全否定である。“America First”を一国主義だと断じ、今後の国際協調への懸念、特に自由貿易体制崩壊への不安を表明している。これらは、トランプ次期大領領を典型的なポピュリストとして、就任前から展開してきた主張と変わりがなく、あえて内容を紹介するまでもない。これでは、前回紹介したように橋下前大阪府知事に「明日のメシに苦労せず、きれいごとのおしゃべりをして…お互いに頭がいいということを見せ合っているのが、過度にpolitical correctnessを重視する現在の政治家・メディア・知識人の政治establishmentの状況じゃないですか。そんな連中に社会の課題がわかるはずがない」とこき下ろされても仕方がないのではないか。

 さて私の意見ですが、前回「社説の中で自分の共鳴する部分に下線を引き、それをつなぎ合わせると、ほゞ自分の意見になります」と書いたので、今回はこの手法でトランプ就任演説を私の立場からscanning してみたら次のようになりました。(日本語訳はNHKによる)
 
 「きょうの就任式はとても特別な意味をもちます。・・・権限を首都ワシントンの政治からアメリカ国民に返すからです。あまりに長い間、ワシントンの小さなグループが政府の恩恵にあずかる一方で、アメリカ国民が代償を払ってきました。…政治家は繁栄してきましたが、仕事は無くなり、工場は閉鎖されてきました。既存の勢力は自分達を守ってきましたが、国民のことは守って来ませんでした。・・・すべてが変わります。・・・本当に大切なことは、どちらの政党が政権を握るかではなく、私達の政府が国民によって統治されているかどうかということなのです。・・・我々は世界がこれまでに見たことのない歴史的な運動の一部を担う数百もの瞬間に出会うでしょう。この運動の中心には重要な信念があります。それは、国は国民のために奉仕するとうことです。アメリカ国民は子ども達のための素晴らしい学校を、家族のための安全な地域を、自分たちのためによい仕事を望んでいます。これは当然の要求です。
しかし、あまりにも多くの国民が、違う現実に直面しています。母親と子供達は貧困にあえぎ、国中に錆びついた工場が墓石のように散らばっています。教育はカネがかかり、若く輝かしい生徒たちは知識をえられていません。そして犯罪やギャング、薬物があまりに多くの命を奪い、可能性を奪っています。
取り残される何百万ものアメリカの労働者のことを考えもせず、ひとつまたひとつと工場は閉鎖し、この国を後にしていきました。中間層の富は、彼らの家庭から奪われ海外で再配分されて来ました。
・・・私たちは、新しい道、高速道路、橋、空港、トンネル、そして鉄道をこの国のいたるところに作るでしょう。私たちは、人々を生活保護から切り離し、再び仕事に着かせるでしょう。アメリカ人の手によって、アメリカの労働者によって、我々の国を再建します。・・・私たちは、世界の国々に、友情と親善を求めるでしょう。しかし、そうしながらも、全ての国々に、自分たちの利益を最優先にする権利がることを理解しています。自分の生き方を他人に押し付けるのではなく、自分たちの生き方が輝くことによって他の人たちの手本になるようにします。最後に、私たちは大きく考え、大きな夢を見るべきです。・・・話すだけで常に不満を述べ、行動を起こさず、問題に対応しよとしない政治家を受け入れる余地はありません。・・・行動を起こすときが来たのです。…」

 以上の部分は驚くほどに日本の現状に酷似しており、これまで6年間にわたってこのブログで述べてきた私自身の改革の方向と一致していますから、ほとんど全面的に共鳴できます。トランプ氏を大統領に選んだ多くのアメリカ人も、このような理念に共感をおぼえたのではないでしょうか。政治は共感・共鳴によって動くのであって、それをポピュリズムだと決めつけても何も解決しません。

 問題はこれ以外の部分つまり、現実にどのような政策を実施するかです。トランプ政権の実務を担当する閣僚を見ても、上記の理念とはかけはなれた経歴の人物が多いように思われます。その乖離は埋められていくのか、それとも理念が失われていくのか、今後問われるのはその点だと思います。

 ところで、私は今度のアメリカ大統領選挙を見ていて、リーマンショックによって顕在化した競争至上主義のグローバリズム、その主役となったマネーゲームとその結果生じた経済的。社会的格差の、崩壊の予兆を感じました。

 そのひとつは、トランプ氏と同じく、大統領選挙戦で初めは泡沫候補とみられたバー二―・サンダース上院議員が絶対本命視されていた民主党のヒラリー・クリントン前国務長官をあと一歩というところまで追いつめたことです。特別代議員制度という極めて不公正な制度によって、ヒラリー・クリントン候補が辛勝しましたが、これがなければ結果はどうなっていたか分からなかったのです。サンダース候補の政策は次のようなものでした。

1.連邦最低賃金15ドル(約1600円)の導入
  2.労働組合結成権の確保
  3.TPP反対を含む通商政策の変更
  4.国民皆保険の実現
  5.巨大銀行の分割
  6.公立大学の無償化
  7.水素破砕法による資源探査の禁止
  8.炭素税の導入など強力な気候変動対策
  9.インフラ公共投資に対する累進課税の強化
  10.包括的な選挙制度の改革
  11.巨額の政治資金の制限

 新聞は、これらの政策を実現不可能と批判していましたが、はるかに過激なトランプ政権の政策がそのまま実行されれば、漸進的な社会改革の希望が遠のくことになります。50年先を見据えて早くベクトルを変え徐々にパラダイムを変えていくことを願う私にとって最も残念なことでした。(M)

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標題の『英語教育』誌の書評は、以前、本ブログの投稿メンバーの一人であった故・浅野博氏が定期的に投稿されて多くの読者を得ていました。しかし残念なことに、浅野氏は2015年10月に急逝され、今日までその穴を埋めることができずに打ち過ぎていました。今回、本ブログの投稿者の一人である土屋澄男がその穴の一部を塞ぐことを思い立ち、毎号とはいきませんが、広く紹介する価値があると思われる特集などを、コメントを加えながら読者諸氏にご紹介することにします。

数日前に発売された『英語教育2月号』(大修館書店)は、その第1特集として「大幅増に向けて語彙指導をアップデートする」と題して、12点の記事を掲載しています。それらを通読してみて、小学校から高校に至るまでの英語授業で指導される語彙がどういうものであるかを理解するうえで、初等・中等教育の英語教育に関心を持っておられる方々には大いに参考になると思うので、以下にそれぞれの記事についてコメントを交えながら紹介をいたします。

最初の「語彙大幅増時代にどう立ち向かうか」(白畑知彦)は、新学習指導要領で規定することになる高校卒業時までに4,000語~5,000語を指導するという目標を達成するために、英単語の具体的な学習法を11カ条にまとめて提案しています。それらは白畑氏の経験に基づいており、第二言語習得の観点に合致した合理的な学習法です。記事の中に「(学習者は)英単語学習に積極的に取り組むこと」という文言が見られますが、それは本稿の評者がブログで再々述べている「単語指導の要諦は学習者に主体的に取り組ませること」という考え方に合致するもので、理にかなった語彙学習法です。

次の「語彙習得を理解するための基本」(相澤一美)は、語彙の記憶プロセスや知識の側面に関する基本的な事柄がコンパクトにまとめられています。教師は単に指導語数が5,000語に増えたことに注目するだけでなく、精選された語彙の知識を与え、それらの知識を深めることが重要だとしています。そのためには教科書だけでは不十分で、「教師が学習語彙表を作成し、教科書で使用されていない高頻度語を重点学習させる必要が出てくる」と述べています。なお、この記事の中に「レマ換算」という用語が出てきますが、英語を教えている先生(特に小学校)には英語の専門家でない方も多いので、ちょっと註をつけてほしいと思いました(これは雑誌編集者の責任でもあります)。

3番目の記事は「教科書の語彙指導を深める超基本語の教え方」(星野由子)です。たとえばmake, have, takeのような基本動詞は多義的であり、教科書ではそれらが一度出現すると、以後は新語として扱っていません。これは現行教科書の明らかな欠陥です。したがって、教師がそういうことを明示しないと、生徒はいつまでたってもそれらの語を正しく理解することができず、使うこともできません。この記事はそういう語彙指導の大事な面を教えてくれます。

4番目の「リーディング指導で意識したい受容語彙・発表語彙の指導」(長谷川祐介)では、「(語彙の指導は)まず意識的な学習をしたうえで、多様な文脈の中で繰り返し触れることが最も合理的な学習方法です」と述べ、リーディング指導の中で語が使用される文脈を印象づけることが重要だと強調しています。続いて5番目の「日英パラレルコーパスで補完する教科書の語彙指導」(日台滋之)は、著者らが開発した“EasyCone”と称する「自己表現活動に必要な表現語句を集めたコーパス」を用いて行う授業の紹介です。このコーパスはWebからダウンロードして利用することができるそうです。

6番目は「英語授業に語彙学習方略指導を取り入れるとは」(田頭憲二)です。「語彙学習方略」とは「学習者が効果的、または、効率的に自らの語彙量を増やし、その語を使用できるように意図的に用いている方法」のことです。この記事で強調されているのは、教師が特定の語彙学習方略を説明し推薦したとしても、生徒はそれを用いるようにはならないことです。生徒の方略を変容させるためには、「彼自身に、その新たな方略を体験させ、その中で、新しい方略を用いることでかかるコストとその有効性に対しての価値判断をさせることが重要」なのです。これはすべての教師に共有してもらいたい知見です。

7番目「英語の枝を広げる派生接辞の指導」(森田光宏)と8番目の「失敗しない!未知語推測方法と指導のポイント」(鈴木健太郎)は、それぞれ語彙指導のノウハウがコンパクトにまとめられている記事ですが、ここでは紙面の都合上、内容についてのコメントは省略いたします。

9番目の「小学校での語彙指導―大切にしたいこと・注意したいこと」(金森強)では、小学校では卒業までに600語程度までの英語語彙を指導することになりますが、指導時間数からみて、その指導は「音声受容語彙としての語彙力育成を重視すべきであろう」と述べています。評者もそれが適切であると賛同します。それにしても2020年の開始を前にして、どのような教科書ができるのか、文科省で作成中の新教材もその全貌が明らかではありません。この記事の著者が言うように、「準備のための時間的な余裕が十分にあるかどうかが懸念される」のは金森氏だけではありません。

10番目は「語彙増に向けた語彙のテスト・評価改善の可能性」(水本篤)です。語彙に関するテストは単に語彙サイズの大きさだけではなく、語彙知識の多くの側面(多義性、同意語、反意語、派生語、統語情報、コロケーションなど)に関する語彙知識を測定する形式をテストに取り入れる必要があります。この記事は、「今後の語彙増に対応するために、語彙指導の優先順位を見直し、学習者の語彙習得を促進するためのヒントをいくつか提示した」ものです。

11番目は「学術語彙リストによる語彙指導を考える」(杉森直樹)です。「学術語彙」(academic vocabulary)とは「幅広い学術科目にまたがって頻出する語彙」のことです。それらの語彙は、英語で専門書を読んだりペーパーを書いたりすることが必要な大学ではむろん必要です。高校段階でも、教科書や大学入試問題にかなりの学術語彙が含まれていますので、大学進学希望者はそれらを学ぶ必要があります。最近、大学教育学会で「新JACET8000共通学術語彙リスト」が開発され、本記事にそのリストの内容が紹介されています。

特集の最後は「English Vocabulary Profileを語彙指導に活用する」(内田諭)です。 “English Vocabulary Profile”とはEUの支援を受けてケンブリッジ大学などが中心となって進めている研究プロジェクトで、英語の運用力を語彙の観点からCEFRに関連づけて評価するものです。しかしこれが日本人の英語学習にどう役立つのかは評者には判断できませんので、コメントは控えます。以上

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中央教育審議会(以下、中教審)が学習指導要領改訂に関する審議結果をまとめ、昨年12月21日、松野博一文部科学相(以下、文科相)に提出しとのことです。その概要はこれまでの新聞報道でほぼ承知をしていたものですが、中教審での審議を経てその全体像が明らかになったいま改めてそれを見直してみて、英語教育に携わる人々に必然的に生じると思われる一般的な疑問点や問題点をいくつか挙げてみます。言うまでもなく中教審は教育全般にかかわる教育の理念や方法を検討する機関ですから、新しい学習指導要領の細部についての改訂作業は現在も続いているのでしょう。学校におけるその施行は2020年度の小学校から始まりますので、それまでにはまだ少なくとも3年の準備期間があります。いろいろな意見を取り入れて改善の手を加えるチャンスはまだ残されていると思われます。

今回はその第1回として小学校における英語教育、特に高学年(5, 6年生)における教科としての英語指導をめぐるいくつかの疑問点を取り上げます。筆者はネット上に公表されている中教審の答申を読んでいて、小学校の英語教育に関して常識では理解のできない不可解な記述があることに気づきました。これでよく中教審の審議が通ったものだと頭を傾げたくなるような事柄もいくつかあります。今回特に問題として取り上げたいのは次の3点です。

(1)小学校高学年の外国語教科の指導時間が確保できていないこと。

(2)誰が授業を担当するのかが明確でないこと。

(3)その他、教材や評価などの問題。

今回はこれらのうち(1)と(2)の問題を取り上げて筆者の感想を述べます。(3)についてはさらに大きな問題に発展しそうなので次回にまわします。

その1.指導時間確保の問題

小学校高学年において「外国語」を教科とし、年間70時間程度の指導を当てる方針は前回の中教審の審議ですでに決定されていました。今回の答申の「小学校の外国語教育における改善・充実」の項目には、この点に関して《・・・「聞くこと」「話すこと」の活動に加え、「読むこと」「書くこと」を含めた言語活動を展開し、定着を図り、教科として系統的な指導を行うためには、年間70単位時間程度の時数が必要である。》と書かれています。これは想定の範囲ですが、問題はこの時間数をいかにして確保するかです。小学校の授業時間数は現行の週28コマ(年間980コマ)が限界とされており、ここに「外国語」の教科として週2コマを増やすと1コマ分(年間35コマ分)がはみ出す計算になります。それを現場でどう解決するかは難しい課題です。理論的には不可能なことです。これを文科省がどのように解決するのかは気になるところでした。

この点に関しては中教審でも議論があったのでしょうが、結局は各学校に工夫して捻出してもらうほかないという結論だったようです。ここで文科省は説明責任をはたすために一計を案じたのです。「時事ドットコムニュース」によれば、去る12月26日、文科省は小学校における授業時間確保に関する実践的な調査研究を行う方針を決め、17年度に16地域(64校程度)をモデル地域に指定し、土曜授業、夏期授業、土曜と夏期授業の組み合わせ、授業日数は変更せずに週当たりの時間数を増加、などのパタンを想定しで施行させることにしたというのです。そしてそのための関連経費約5300万円を、同年度予算概算要求に盛り込んだということです。筆者はこの記事を読んで、さすがは知恵者ぞろいの文科省だと感心しました。しかしこれで一件落着とはいきません。なぜなら、もともと無理なものを強引に押し込めるのですから、そのゴリ押しの弊害は何かの形で(たとえば教員の勤務条件をさらに悪化させる、子どもの学びの集中力を低下させるなど)、早かれ遅かれ顕在化するものだからです。

その2.指導教員の問題

小学校の英語を誰が教えるのかは、当初からの難問でした。これについては筆者も本ブログや雑誌(『語研ジャーナル第15号』2016)などに意見を述べました。その要旨は、小学校での英語教育は英語の基礎教育であり、これまでの中学校入門期の指導と共通する部分はあるものの、高校や大学の英語教育とはまったく異なるものだということです。英語ができれば誰でも教えられるというものではないのです。まして日本語を知らないネイティブ・スピーカーなどに教えられるものではありません。入門期の英語指導者が特別な知識と技能を必要とすることは専門家の常識となっています。今度の中教審の答申にも、たしかにそのことに触れられてはいます。たとえば「指導体制、教員養成・研修等」の項目に《・・・教科化に対応する専門性を一層重視した指導体制を構築することが必要である》とあります。中教審も文科省も、教科としての英語指導者の重要性についてはよく認識しているようです。

しかし今度の中教審答申には、その具体的な方法に関して私たちを納得させるような企画は何もありません。そこには、「教育委員会、大学等と連携し、教員の養成・採用・研修の一体的な改善の取り組みを進め、小学校教員の専門性を高める・・・」とか、「中・高等学校の教員免許を有する小学校教員や退職教員が専科指導を行ったり・・・」など、様々な方策が細かく記されています。しかし、そのほとんどがこれまで言われてきた事柄ばかりで、目新しいものは何もありません。そして最後の部分に、「このような取組を通じて、学級担任はじめ全教員が外国語に触れ、外国語を指導する力を身に付けることができるよう、構内研修や外国語教育における域内の連携体制を充実させていく・・・」などと書かれています。そんなことが現在の忙しい小学校の現場で実施できると文科省は本気で考えているのでしょうか。これは机上で作成された架空のプランにすぎず、英語教育の専門家の目からすると、とうてい実施可能なものとは思えません。

どうやら文科省は、小学生に英語を教えるなどは簡単なことであって、数回の研修で要領を教えれば、誰でもすぐ教えられるようになると考えているようです。そして、そのための最良の教材を文科省主導で作成する自信があるようです。とんでもない安直な考えです。このやり方では、結局のところ、日本全国のいたる所で英語を実際に使ったこともない学級担任が「外国語」を担当することになるのは明白です。変な英語を使って、一生懸命に授業を進めようとする小学校の先生方の姿を想像して胸が痛みます。英語教育に長年関わってきた専門家としてもう一度申し上げますが、日本語と語系を異にする英語という言語の基礎を小学生や中学生に教えるということは大変に難しいことなのです。従来中学校から指導を開始していた日本の英語教育がうまく機能しなかったとすれば、その大きな原因の一つは、入門期の英語指導に十分な専門家を配置できなかったことによるのです。