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8月号の『英語教育』の第1特集は、3月末に告示された小・中新学習指導要領の内容についての解説と、それを読み解く際の論点を英語教育関係の諸学会代表者に挙げてもらうという記事で構成されています。

まず今回改訂された新学習指導要領内容の解説は、これからの教育を国がどのような方向に導こうとしているのかを、その問題に詳しい方々がそれぞれの立場から述べています。最初の二つは主要キーワードの解説です。田村学氏(國學院大學教授)と酒井秀樹氏(信州大学教授)が新学習指導要領で用いられているキーワードを挙げながら、中教審と文科省で練り上げた教育理念を解説しています。そこでは、すべての教科に共通して育成すべき資質・能力として、①生きて働く「知識・技能」、②未知の状況にも対応できる「思考力・判断力・表現力等」、③学びを人生や社会に生かそうとする「学びに向かう力・人間性」の3つが挙げられています。これらを英語教育に当てはめると、これまでのように一方的に知識を教え込む授業ではなくて、これからの子どもが実際の社会で活用できる学力を身につけるために、「主体的・対話的で深い学び」を実現することが求められていると強調されています。

次いで向後英明氏(敬愛大学教授:今年3月まで文科省・初等中等教育局教科調査官)が「新旧対照で読み解く中学校学習指導要領」というタイトルで、現行の学習指導要領と今度改訂されたものとの違いを分かりやすく解説しています。その決定的な違いは、全般的に、今度のものがより具体的で詳細にわたっていることです。たとえば「外国語」の目標は、現行のものは3行くらいに収まっていますが、今度のものでは中教審の設定した教育方針にしたがって、 [知識及び技能]、[思考力、判断力、表現力等]、[学びに向かう力、人間性等] の3項目に分け、それぞれに具体的な記述がなされています。また英語の目標も、現行のものは聞くこと、話すこと、読むこと、書くことの各技能1項目(計4項目)について簡単な記述がなされているのに対して、今度の改訂では「話すこと」の技能が [やり取り] と[発表] に分けられ、合計5つの技能・領域について、15項目にわたる詳しい記述に書き換えられています。

心配なのは、学習指導要領に盛り込まれたこれらの項目を現場の忙しい先生方が丁寧に読んで理解してくれるかどうかです。ここに書かれているものは、現場の教師にとって馴染みのないものではないけれども、自分が実践するにはなかなか高度な知識と指導技術を必要とするものです。文科省教科調査官の方々は、教員研修などで口角沫を飛ばして説明に努めることでしょう。暑い夏なのにご苦労なことです。しかし評者は常々、学習指導要領は文部科学大臣の名によって公示される公的文書なのだから、簡潔なほどよいと考えています。このような、細部にわたるまで詳細に記述された指導要領に縛られるのでは現場の教師が萎縮してしまい、創意工夫の意欲を失ってしまうのではないでしょうか。

次の「小学校学習指導要領を読んで一歩前へ」は、執筆者の久埜百合氏(中部学院大学学事顧問)が小学校での英語教育実践者・研究者の立場から、高学年での英語指導で注意すべき事柄をまとめています。その中で特に注目したいには文字指導です。小学校で英語の読み書きが指導されることになって、どんなことになるのか教育専門家の多くは心配しています。小学校で英語を担当することになる先生方は、ぜひこのようなアドバイスに耳を傾けて研究していただきたい。ただ、これは雑誌の編集者に言うべきことですが、中学校の新学習指導要領について詳しい解説があるのだから、小学校のものについてもしっかりとした解説がほしかったと思います。

次の斎藤剛史氏(教育ジャーナリスト)の「学習指導要領周辺で、学習・指導はこれからどう変わる?」の記事は、標題の示す通り学習指導要領そのものではなく、それをめぐる英語教育の状況が現在どのように変化しつつあるかをジャーナリストの観点から述べたものです。評者が特にここに記録しておきたいと思ったのは、斎藤氏が最後に述べている言葉です。その要旨は、英語教育の問題は英語によるコミュニケーション能力の重視か否かということではなくて、学校における英語教育とは何か、それはどうあるべきなのかの答えを、英語教員の一人ひとりが真剣に探すことではなかろうか、というものです。評者もその通りだと思います。文科省が法的拘束力を持つ詳細な学習指導要領によって教員を縛るのは、まさに権威主義的教育行政にほかなりません。教育を変えていくのは、学習指導要領の押し付けによるのではなく、現場の教員一人ひとりの研究心と創意工夫の積み重ねなのです。

第1特集の後半は8人の英語教育関連学会・研究会の代表者による1ページずつのコメントです。そこでは、今度の改訂学習指導要領についての重要な問題点がいくつか指摘されており、その多くは小学校への英語教科化に関するものです。小泉 仁氏(日本児童英語教育学会)は、①授業時間の確保と②人材の確保について述べています。②の人材の確保については、「英語専科教員レベルの資質と小学校教員の資格と実力を備えた推進リーダー的人材を多数育成し、数年後には1校に1名配置できるよう、行政の努力に期待したい」と述べています。まさにその通りで、それが実行できないようでは、今回の学習指導要領は絵に描いた餅に終わることは必然のように思われます。江利川春雄氏(日本英語教育史学会)によると、「小3~小5の担任は約14万人だが、国が研修する小学校英語教育推進リーダーは2018年度までに全国で1,000人ほど」だそうです。これでは焼け石に水です。

また①の授業時間の確保についてもいろいろ問題があります。現在実験的に行われているモジュールによる週1コマの確保は、専科教員やALTの配置を排除し、結局は学級担任による授業になる可能性が高くなります。小泉氏は、「CDを用いた機械的ドリルに終始したり、フォニックスの書き取りですませるようでは、児童の意欲を繋ぎ止めることはできない」と述べています。この問題については、瀧口 優氏(新英語教育研究会)も同様の指摘をしています。

最後に、これらの学会代表者たちのコメントを読んで一つ気になったことがあります。それは教師の多忙さについてです。小・中学校の教師たちの現在の勤務状況を改善しなければ、中教審や文科省がどんな優れた計画を作成しても無駄だと言いたいのです。しかし英語教育学会の代表者の中には、この問題に触れた人は皆無でした。文科省が4月末に発表した教員勤務実態調査では、10年前より勤務時間が長くなり、過労死ラインとされる1ヶ月の時間外労働が80時間を超える教員が、小学校で約3割、中学校で約6割もいるのです。またOECD(経済協力開発機構)の調査では、日本の教員が授業に費やす時間の割合は小学校で全勤務時間の37%、中学校では32%にしかなりません。英米では50%を超えています。日本の英語教育学会や研究会もこの問題を真剣に取り上げて議論していただきたい。これを教員自身の問題として捉えなければ、けっして解決は望めません。

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大学入試センター試験に代わって、2020年度から始まる「大学入学共通テスト」の実施方針が7月10日の有識者会議で了承されました。新聞報道によると、そこで懸案になっていた英語については、2023年度までは現行形式の英語問題を残し、2024年度からはそれを廃止して民間試験に全面移行することになったとのことです。したがって2020年度から2023年度までの4年間は、英語に関してはセンター試験と民間試験が共存することになります。そしてどちらを使うかは、それぞれの大学が判断して決めることになります。したがって各大学は、その移行期4年間の英語に関する判定資料を、センター試験によるのか、民間試験によるのか、あるいはその両方によるのかを早く決めて、受験生への広報を早めに開始することが必要になります。

文科省はこのことについて、前回のブログで紹介したように、2020年度から英語を共通テストから除外して全面的に民間試験に移行するか(第1案)、それとも入試制度変更の影響を考慮し2023年度まで現行形式の英語問題を残すか(第2案)を懸案としていました。国大協が所属大学に対して行った調査では、第1案を支持する大学が34.1%で、第2案またはその修正案を支持する大学が過半数を占めました。そこで文科省は国大協の意見を勘案して、2023年度までは現在の英語問題を残すことにしたのであろうと筆者は推測します。

文科省の決定はそれなりに筋を通したものですが、今後新しい入試制度が開始されるまでの7年間に解決しなければならない重要な課題がいくつも存在します。前回のブログでは試験を実施する側からの問題点を挙げましたので、今回は受験生と高等学校の側から予想される問題点を挙げることにします。言うまでもなく、入試に関する問題を検討する際に常時念頭に置かなくてはならないのは公平性の原理です。つまり入試制度の良し悪しは、受験生の公平性が保障されるかどうかによって判断される必要があります。

大学入試の英語を民間試験に移行した場合に、高校生たちの受験機会の公平性は保障されるのでしょうか。それがなかなか難しいのではないかと予想されます。最大の問題点は民間団体が行っている英語テストを受験するには検定料が必要なことです。現在実施されている民間試験を受験すると、実際にどのくらい必要なのかを調べてみました。以下が主なテストの検定料です。

*実用英語技能検定(英検):3級3,800円、準2級5,200、2級5,800円、準1級6,900円、1級8,400円(ただしスピーキングは3級以上。ライティングは現在1級・準1級のみだが、H28年度からは2級に導入予定) TOEFL iBT : 230USドル TOEIC S&W : 10,260円 TEAP : 15,000円

高校生にとってはなかなか馬鹿にならない金額です。大学の入試受験者は、高校3年生の4~12月に受けた結果を2回まで使えることになっているので、たいていの高校生は少なくとも2回は受験することになるでしょう。よく引き合いに出されるTOEFLの受検には1回で25,000円くらいかかりますから、普通の高校生には手が出ません。しかも内容がアメリカへの留学生向きですから、その点でも一般の高校生には不向きです。現状では、おそらく高校生の大部分が英検を選択することになると思われます。その場合でも、準2級以上では2回の受検で1万円以上の費用を負担することになります。文科省は民間試験を主催する団体に対して大学入試受験者の検定料を軽減するように求めていますが、たとえ検定料が少々下がっても交通費(場合によっては宿泊費)を負担することも必要なので、経済的に恵まれない環境に置かれている高校生には大きな負担になります。

さらに懸念されるのは、そういう民間試験を受検するときの準備に関する事柄です。全国の高校は、英語を聴き・読むことに加えて、それを話し・書くことの指導体制を確立することができるのでしょうか。これまでそういう指導を経験したことのない高校教師がまだ多いと思われますが、そういう人たちが英語を話し・書くことを統合した指導を本格的に研究し、実践してくれるのでしょうか。しかも生徒がそれらの試験に備えるには特別な準備を必要としますが、彼らにその指導ができるのでしょうか。予想される事態は、高校によって、また教師によって指導のばらつきが大きくなるだろうということです。その結果、学校で「話すこと・書くこと」を指導してもらえない高校生は、当然のこととして予備校に行くことになります。そこでもやはり費用の問題が起こります。あまり余裕のない家庭はそこまでの負担には耐えられないでしょう。そうなると受験機会の公平性はますます低下し、格差社会が現在以上に進むことになります。

最後に、もう一つぜひ指摘しておかなければならない問題があります。それは高校教育の根幹に関わる問題なので、入試センターや文科省だけではなく、各地方教育委員会・学校長や教員がこぞって知恵を絞っていかなければならない問題だと筆者は考えます。それは、簡単に言うと、高校生の英語学習エネルギーを4技能に分散することの可否についてです。文科省や中教審が言うように、英語コミュニケーション力は4技能の総合的使用能力を養成するという考えは正しいとしても、そのレベルの能力をすべての日本人高校生に要求するのは非現実的ではないのかという問題です。またそれは、個人の言語学習の発達的観点からして、果たして教育的に正しいことなのかという問題です。これは大きな議論になるので詳しい議論は次回に譲りますが、結論だけを述べると次のようになります。

言うまでもなく、英語は日本人にとって外国語です。通常の日本人は常時それを使用する環境にはありません。ですから、日本人の英語学習は非常に長期にわたる学習の努力を必要とします。外国に留学経験がなくても英語を母語話者なみに習得した人は例外的に存在しますが、大半の日本人はそれに失敗します。そして失敗の原因は努力が足りないからだと人々は言います。逆な見方からすると、成功するための努力は人並みの努力では駄目だということなのです。成功者は例外的と言われるほどの努力をしたのです。そのことはわが国の明治以来の英語教育の歴史が証明しており、不変の事実なのです。グローバルな時代になって、これからの子どもたちは変わらなくてはならないと言う人もいますが、それは個人的な見解にすぎません。高校終了時までに外国語の4技能に習熟させようなどというのは欲張りすぎなのです。そのような努力を高校生に強要するとすれば、そのために彼らの費やすエネルギーは莫大であり、そのために失うものもまた少なくありません。それに加えて、わが国でのスピーキングやライティングの評価に関する研究の歴史は浅く、個々のテストの内容妥当性・信頼性についての検証法も、実施面での公平性の検証法も確立していません。かくて大学入試英語の民間試験への全面的移行は、大事に至る前に、衆知を集めて手を打たねばなりません。

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文科省が打ち出している入試改革の大きな目玉の一つが、大学入試で英語の「読む・聞く・話す・書く」の4技能を測ることです。しかし、それを従来の入試センター試験方式で実施することは不可能なので、2020年度からそれに代わって民間試験(英検やTOEFLなど)を活用するというのです。その上、文科省は厄介な問いを大学側に投げかけました。入試センターが作成してきた従来の「読解」と「リスニング」の英語問題について、次に示す①と②の案からどちらかを選べというのです。国立大学協会(国大協)の入試委員会は、大学側の意向を予め調査した結果、これに③を加え、3つの選択肢にしました。

①従来の大学入試センター試験に代わる新テスト(仮称では「大学入学共通テスト」)では、その開始時の2020年度から英語問題を廃止し、それを民間試験に全面的に移行する。

②入試制度変更の影響を考慮し、従来の大学入試センター試験の英語問題を2023年度まで残す。

③(国大協によって新たに加えられた選択肢)大学入試センターによる英語の問題を2013年度まで残すが、リスニング・テストについては2020年度からこれを廃止する。

先日の新聞(6月17日付朝日新聞)の教育欄は、6月14日に東京・神田の学士会館で開かれた国大協の総会で、上記の英語入試の問題が取り上げられたことを報道しています。その記事によれば、席上、入試委員長が「英語の廃止についての意見は全く割れた」と報告すると、総会に出席していた学長たちからどよめきが起こったそうです。5月中旬の実施方針案の公表を受けて、国大協の入試委員会が上記3案について国立82大学の意向を調査したところ、①は34.1%、②は29.3%、③は18.3%と、いずれも過半数を満たさなかったというのです。さらに「その他」も18.3%あって、この問題についての国立大学の意見は完全に分裂したのでした。

国大協は結局、現時点で英語試験の廃止を決めることは拙速であり、2020年度の民間試験の活用状況を検証して判断すべきだという意見書をまとめることにしたのでした。その意見書には民間試験の内容が学習指導要領と合っているかの疑問や、受験生の経済的な負担の軽減策について文科省に説明を求める内容も盛り込まれたとのことです。これに対して文科省がどう回答するかが注目されるところです。

ところで国大協の大学に対する意向調査結果は興味ある傾向を示しています。2020年度から英語を民間試験に全面移行することに賛成の①が34.1%であったのに対して、それを23年度まで延長するという②と③を合わせると48.6%になります。つまり、大学の約半数は民間試験への移行に不安を感じているということです。そのように考えると、国大協の文科省からの問題提起への対応は理にかなったものです。文科省から出てきた案(英語入試を民間試験に移行するという案)はあまりにも唐突であり、大学が判断するには資料が不足していてどう考えたらよいか分からないというのが本音ではないでしょうか。なお、現行のリスニング・テストを2020年度から廃止するという提案に18.3%が賛成したという点は興味を惹きます。その理由が知りたいところですが、それについての議論はここでは省きます。

上記の問題の所在は、明らかに、新制度の「大学入学共通テスト」(仮称)から英語を外し、民間で行われている各種の資格試験や認定試験で代用しようとすることにあります。しかしそれにはいくつもの問題があります。第一にテストの妥当性と信頼性の問題です。民間テストの一部には4技能を含む試験をすでに行っているものがあり、その数はすでに10指に余る数にのぼります(注)。それらの中から大学入試センターが選定し認定するというのですが、どれが大学入試に代わりうるものであるかを入試センターはどのように精査し、その適切性を判断するのでしょうか。特に「スピーキング」や「ライティング」のテストについてはその実施の歴史も浅く、個別テストの色彩も強いので、妥当性・信頼性および公平性の判断は困難をきわめると予想されます。

特に重要なのは試験問題の内容妥当性です。民間テストの多くは、それぞれ留学用やビジネス用などの目的に応じて作成されています。たとえばよく知られるTOEFLは、もともとアメリカの大学への入学を希望する外国人留学生の英語力を測定するために作成されたものです(4技能テストはTOEFL iBT)。またTOEICは、主としてビジネスにおける英語コミュニケーション力を評価する目的で考案されたものです(4技能テストはTOEIC S&W)。ですから、それらのテスト結果を日本の大学入試にそのまま利用することには、内容の妥当性という点で大きな疑問があります。大学入試の最大の特徴は、受験生の高校修了時における到達度をしらべ、日本の大学での修学に必要な学力を有しているかどうかを判定することにあります。ですから、民間で行っている試験を大学入試にそのまま利用することには、賛成できない人も多いと思われます。

TOEFLやTOEICと比べると、日本英語検定協会のテスト(英検)は日本人の学習者を対象としているので、その内容は文科省の作成する学習指導要領に則っています。それは現在、3級以上ではスピーキングを、2級以上ではライティングのテストも課しています。最近その同じ協会で、大学での英語で行われる授業で必要とされるコミュニケーション力を測定することを目的としたTEAPという新しいタイプの4技能テストを開発しました。これなどは、今度の文科省の入試改革の方向を見通して、先取りした形で導入されたようにも思われます。もしそうだとすれば、入試を民間試験に肩代わりさせることには大きな危険を感じます。なぜなら、これを契機に、民間の英語テストをめぐって猛烈な認定取得競争が起こることが予想されるからです。いったんそれが始まれば、一部の受験生を利する得点の安売り競争がなされる事態も考えられます。そうなると入試の公平性が疑われ、ひいては大学入試全体の信用が失われることになるでしょう。

他にもいろいろ考えられますが、以上に述べた事柄は主として入学試験を実施する側の問題点です。英語を民間試験に移行するには、さらに、受験者側の問題点を考慮しなければなりません。たとえば民間試験を受験するには費用がかかりますが、その問題をどうするのでしょうか。また受験生を送り出す高校は、新しい入試制度に適切に対処できるのでしょうか。英語4技能の総合的な学力が入試で要求されるとすれば、高校はそのような指導を常日頃から授業で実践していく必要があります。特にスピーキングやライティングの学力向上はそう簡単なものではありません。そういう指導が全ての高校で保障されるのでしょうか。受験のことはすべて予備校にお任せとはいうのでは無責任です。次回にはそういう問題を取り上げる予定です。

(注)文科省の「高大接続改革の進捗状況について」(2017年5月16日)の資料に、「主な英語の資格・認定試験とCEFRとの対照表」が記載されています。そこには次の10種類の民間試験が記載されています。

(1) Cambridge English  (2) 英検  (3) GTEC CBT  (4) GTEC for STUDENTS  (5) IELTS  (6) TEAP  (7) TEAP CBT  (8) TOEFL iBT  (9) TOEFL Junior Comprehensive  (10) TOEIC / TOEIC S&W.

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< 社説よみくらべ > 6.”共謀罪法“ の成立

6.”共謀罪法“ の成立

 「共謀罪」の構成要件を変更して「テロ等準備罪」を新設する「改正組織的犯罪防止法」が、参議院での委員会採決を省略し、本会議での中間報告によって採決を行うという異例な国会運営によって成立した。7月中に施行される見通しである。各紙とも banner headline で伝え、ほとんどの新聞が社説でとり上げた。

各社社説の見出しは次の通り。

読売新聞    「凶行を未然に防ぐ努力続けよ」
朝日新聞    「権力の病弊 ”共謀罪“市民が監視を」
毎日新聞    「一層募った乱用への懸念」
日経新聞    「あまりに強引で説明不足ではないか」
産経新聞    「国民を守るための運用を 海外との連携強化に生かせ」
北海道新聞   「国会の本分捨てたのか」
河北新報    「”Ⅰ強“ の数の横暴極まる」
中日新聞    「『私』への侵入を恐れる」
京都新聞    「行き過ぎた運用に歯止めを」
中国新聞    「議論封じる暴挙許せぬ」
西日本新聞   「監視すべきは1強政治だ」
南日本新聞   「数の力の暴挙に政権のおごり極まる」

読売と産経を除いては、法案の審議過程や内容に強い懸念や反対を表明している。

法案の問題点として、一般人が捜査の対象になるのではないか、組織的犯罪集団の定義とは、どうやって準備行為を見極めるのかといった点が挙げられており、政府側の曖昧な答弁でそれが解消されないまま、将来に禍根を残すことになりかねないと懸念している。
さらに、法律の内容もさることながら、強引な国会審議のあり方についての批判が目だち、国会の閉会を急いだ背景に「加計学園問題」があると道新が指摘している。また、加計問題の疑惑がこれ以上拡大すると、来月の東京都議会議員選挙で、“小池新党”に押され気味の自民党や公明党、維新が、さらに苦境に追い込まれることを恐れたためだと推測した社説( 道新、河北、京都、中国)もある。
新法の名称については、読売、日経、産経が「テロ等準備罪」としている他は、上記各紙の社説はすべて「共謀罪」を使用している。

「読売新聞社説」は、2020年のオリンピック、パラリンピックを控えテロ対策は喫緊の課題であり、改正法を有効に機能させなければならない。「既遂」を処罰する現行の刑事法の原則に縛られたままでは有効な手立ては講じられないから、テロ等準備罪が必要だと論じている。また、法の対象が組織的犯罪集団に限定されており、適用には実行準備行為も必要とされているから、これらの限定がなかった「共謀罪」とは別物だとしている。「一般人も処罰される」という野党の主張は不安を煽るだけであり、監視社会になるという批判も、警察が新たな捜査手段を手にするわけではないから、的外れだとしている。ただ、採決の手段については乱暴だったと批判している。

「朝日新聞社説」は、捜査や刑事裁判にかかわる法案は「治安の維持、安全の確保」と「市民の自由や権利、プライバシーの擁護」という深刻な対立を惹き起こすが、「二つ価値をどう両立させ、バランスをどこに求めるか」が重要であるとし、「共謀罪法」について政府の姿勢はあまりに問題が多く、「この法律がなければ五輪は開けない」という安倍首相の主張などまやかしが目立ったとしている。何でもあり、のこの政権が産み落とした「共謀罪法」はやがて市民の自由と権利を蝕む危険をはらむから、日本を監視社会にしないためには、国民の側が法の運用をしっかり監視し、異議を唱え続けねばならないと結んでいる。そして、刑事法の原則の転換につながるこの法案の制定の過程は、国会の歴史に重大な汚点を残したと強く批判している。

「毎日新聞社説」は、捜査機関が権限を乱用し、国民への監視を強めるのではないかというのが、この法律の最大の懸念材料であった。捜査機関が捜査を名目に行き過ぎた監視に走る可能性があることは、これまでの例を見ても明らかで、その懸念は一層強まったとしている。政治的な活動を含めて国民の行動が警察権力によって脅かされてはならない。監視しようとする側を、どう監視するか。国民の側の心構えも必要になってくると結んでいる。また、法案の取り扱いについては、テロなどの治安上の必要性は認めるとしても、こんな乱暴な手法で成立させた政府を容易に信用することは出来ないと述べている。

「日経新聞社説」は、法案の内容には触れず、採択の手続きについて、最後には多数決で決めるのが国会のルールだとしても、与党の都合で法案審議の手続きを一部省略し、早期成立にこだわるような手法は、あまりに強引過ぎると批判している。

「産経新聞社説」は、東京五輪を控え、日本がいつまでもテロや組織犯罪に対して国際社会の外にいるわけにはいかない。新法の一刻も早い成立が望まれた所以であると歓迎している。「平成の治安維持法」などの批判は劣悪なレッテル貼りで、戦前と戦後では体制も社会情勢も異なり、比較の対象にはなりえないを批判している。

「北海道新聞社説」は、憲法が保障する基本的人権の重大な侵害つながりかねないと批判された「共謀罪」を、与党は議論を封ずる奇策で押し切った。立法府の本分を捨てたに等しいと、自民・公明を批判する一方、野党についても、徹底した論戦で問題点を明らかにさせ、政府与党を論破する。国会外の市民とも連携するとうのが正攻法である。そうでないと、いつまでも数の力を跳ね返せないと野党に注文をつけている。

「河北新報社説」は、「共謀罪」では、一般の人が捜査の対象になるのかどうかなどの根本的な疑問に対する政府の答弁は一貫性を欠き、審議すればするほど曖昧で、不完全な法の実態が浮かびあがった。「奇策」を使ってまで成立を急いだのは、「安倍一強」の強権政治が如実に表れ、数の横暴が頂点に達した結果だと断じている。

「中日新聞社説」は、この法律によって日本の刑事法の原則が覆える。まるで人の心の中を取り締まるようだ。「私」の領域への「公」の進入を恐れる。として、身に覚えのないことで警察に呼ばれたり、肩家宅捜索を受けたり、そんな社会になってしまはないだろうか。なにしろ犯罪の実行行為は前提になっていないのだからと心配している。

「京都新聞社説」は、戦後民主主義の基本となる「内心の自由」を侵しかねない。適用基準が明確でなく、捜査機関が乱用する恐れがあると、野党のみならず、多くの国民、有識者が指摘してきたが、政府の説明は二転三転し、国民の不安を解消できなかった。行きすぎた運用に対する歯止めを施行前に整えておくべきだと主張している。

「中国新聞社説」は、最大の不安は一般の人が処罰の対象になるかどうかだろう。政府は「ならない」というスタンスだが、捜査機関による恣意的な運用の恐れが指摘されている。条文に歯止め策がないからだ。私たちはテロ対策という包装紙に誤魔化されてはいけない。監視社会への切符は要らないと
している。

「西日本新聞社説」は、国家権力には縛りが必要だ。国民主権をうたった憲法の下で、権力の行き過ぎがないよう国民が国家の動きを監視していく。そうした立憲主義の基本理念に照らして、この法案はいわば、正反対の性格を帯びていると評している。

「南日本新聞社説」は、捜査対象が際限なく広がるのではないか。国民が抱く不安を払拭する説明はついに聞くことができなかった。反原発や反基地などの市民運動にも矛先が向くのではないか、と懸念を表明している。

さて私の意見です。

 ほとんどの新聞が社説でとり上げたのは、この法律が、国連人権理事会の人権問題特別報告者から指摘されたように、民主主義社会の基盤となる基本的人権や言論の自由を制約する恐れがあるからだろう。また、一部の社説は法律の内容よりも、政府・与党の強引な国会運営に焦点をあてているが、内容未消化のまま、数の力で一方的に法律を作り上げるというのでは、議会制民主主義は内側から崩壊する。これらの観点から私は「共謀罪」に強く反対する。メディアには、国民に監視を呼びかける前に、自らの使命として、この法律の運用に、執拗に目を光らせ、やがてこの法律の廃止に追い込んでもらいたいと思う。

 何しろこの法律はわかりにくい。4月の各社の世論調査では、賛否が大きく割れた上、NHKの6月の世論調査でも「どちらともいえない」「わからない」が合わせて半数近くになっている。
私自身も「共謀罪」が「市民団体が処罰される」などの批判を浴びて過去3回廃案になっていることは知っていたが、その「共謀罪」の「構成要件を変える」というのはどういうことか最初は理解できなかった。それは、対象となる犯罪を676から277に絞ったということらしいと分かったが、それでも対象犯罪があまりに多岐にわたっていて、それらがどうしてテロと結びつくのかわからない。「墳墓発掘死体損壊罪」が何故テロと結びつくのか。道化役を演じさせられたらしい岩田勝年法相に同情したくなった。法案を作成した法務官僚や警察官僚には解っていても、後から法案を読んだのでは、なかなか理解できない。国民は、自分達が理解できない法律によって取り締まられるわけである。「テロを取り締まるのだからいいだろう」という程度の理解でいると、後でとんでもないことになりかねないと私は思う。

それに、日本の警察は、アメリカから極秘の情報監視システムを供与れたと元CIA局員のエドワード・スノーデン氏が共同通信に伝えている。 警察の捜査次第で、個人のプライバシーは丸裸にされかねない。違法なGPS操作で、容疑者を9か月も付け回したという最近の警察の捜査を見ると、杞憂とは言い難いだろう。疑わしきは罰せずという原則が、疑わしきは罰するという方向にむかうのではないか。

 産経の社説は、この法律を「治安維持法」になぞらえることを批判し、その時代とは、体制も社会情勢もちがぅと主張しているが、権力の本質を甘く見ているような気がする。私は、出版社を立ち上げた時、何回か横浜弁護士会に相談に行った。横浜弁護士会は、治安維持法違反で「横浜事件」の被告を裁いた横浜地裁のすぐ隣にある。私は雑談の合い間にそのことに触れてみたが、弁護士さんは知ってか、知らずか、まったく関心を示さなかった。治安維持法による最後のでっち上げである凄惨な「横浜事件」について、文芸春秋誌の編集長であった池島信平は「我々古い編集者は自分達が甞めた苦しみをもう国民の誰一人にも甞めさせないという気持ちを今なお持ち続けている」と書き遺している。過去から学ばなければ現在は理解できず、未来を語ることはできない」という箴言を忘れてはならないだろう。

「まさか私が」と思っているうちに、「え、何で私が」ということにならないようにというのが、昔、沖縄戦の伝単を見ていて「非国民」と罵られて殴り倒され、憲兵隊に突き出すと脅されたことのある私の切なる願いである。 (M)

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「英語化は愚民化」というのは、政治学者である九州大学大学院準教授・施(せ)光恒(みつひさ)氏が著した本(集英社新書2015)の書名から拝借したものです。その本の副題は、「日本の国力が地に落ちる」というものでした。それを最初に見たとき、そのあまりにも挑戦的な題名にやや反発を感じたように思いますが、読んでみて成るほどそうかと納得できる点が多く、英語教育の専門家とは異なる発想が随所に見られ、大いに啓発されたものでした。それが出版されてから2年後の今、もう一度読み返してみて、そこで指摘されていたことの多くが現実となって迫ってくる恐れが高まっていると感じます。

施氏の言う「英語化」とは、今世紀に入ってから政府と文部科学省が打ち出した、学校教育における一連の英語重視政策を指しています。まず2000年に、政府の立ち上げた「21世紀日本の構想懇談会」が、これからの時代を生きる日本人にはコンピュータと英語が必須だと提言しました。それを受けて文科省は、それまで消極的だった小学校での英語教育を実施する方向に転換し、着々とその準備を開始しました。そして2002年、「『英語が使える日本人」の育成のための戦略構想』なるものを打ち上げ、私たちを驚かせました。その戦略構想の目玉は英語教育の早期化でした。まず小学校高学年(5・6年生)を対象に、「総合的な学習の時間」や「特別活動」の時間を利用し、教育の一環として外国語会話(英語会話)を教えることになりました。次いで2008年の学習指導要領改訂で、それを独立した「外国語活動」に格上げしたのでした。そして今度の改訂では、「外国語活動」を小学校3・4年生に移し、5・6年生では「外国語」という名の教科にすると決めたのです。

学校教育における英語重視政策は小学校教育に留まりません。2009年の高等学校指導要領改訂には「授業は英語で行うことを基本とする」と記し、従来の学習指導要領とは違って、その規定が普段の授業の進め方にまで及ぶことになりました。そして文科省はその後、中学校でも英語の授業は英語で行うように通達を出しました。そのモデルとなる実践を推進するため、ご存知の方も多いかと思いますが、2002年度から各地に「スーパー・イングリッシュ・ランゲージ・ハイスクール」(SELHi)が新設され、また2014年度からは「スーパー・グローバル・ハイスクール」(SGH)が設置されました。このように、小学校から高校に至る英語教育の改革を、文科省は着々と実施に移しています。

さらに文科省は「英語化政策」の方針をエスカレートさせ、大学の授業を早急に英語化するように促しました。その促し方は実に巧妙で、「スーパーグローバル大学創成支援」と称するプロジェクを2014年度から強力に推し進めています。それによると、文科省は世界大学ランキングトップ100を目指す「トップ大学」及びグローバル化を牽引する「牽引型大学」を選定し、認定した大学に最大で年間50億円(10年間)の補助金を出すというものです。その補助金の分配には、英語で行う授業の割合が重視されます。文科省はその権限を最大限に活用し、大学への補助金で釣ろうという巧妙な仕掛けです。このプロジェクトには104校の応募があり、2014年9月には、国公私立大学を併せて37大学が認定されています(注1)。そのような驚くべきプロジェクトが、きわめて短期間に進行したのです。

本ブログの読者の中には、現代のグローバル時代において文科省が英語教育を強力に推進することは当然であり、そこに何の問題があるのかと思う方もおられるかもしれません。今度の文科省の「英語化政策」の推進については、経済界、特に財界から強力な要望があったと言われています。また、安倍首相は楽天の三木谷社長と親交が深く、その人の影響力が大きかったとも聞いています。しかしそういうトップからの意向を文科省が汲んで(最近の流行語では「忖度して」)、多くの教育専門家の警告(注2)を無視するような決定を次々に進めていることを知れば、誰もが不安を感じるのではないでしょうか。ここで立ち止まって、その方針で進めることが本当に日本国民にとって必須のことなのか、そこに何か危険な落とし穴があるのではないか、と考えてみる必要があります。

専門家の警告の一つは、小学校から大学までの日本中の教育機関がこぞって「英語を使える日本人の育成」に力を注ぎ、子どもたちや若者たちが英語学習に多大のエネルギーを費やすことによって、失われるものが少なくないのではないかということです。ここで、施氏が前記著書の第二章で提供している3つの重要な視点を取り上げます。これらによって、私たちは国を挙げての「英語化」への選択が危険に満ちたものであることを認識する必要があります。

1.日本語が「国語」の地位を失う危険があること:もし英語が事実上のグローバル言語として、日本国内でも高度な学問・芸術そしてビジネスなどに日常的に使われることなった場合には、日本語はしだいに衰退し、いわゆる「国語」でなくなってしまう危険があります。かつてイギリスなどの植民地であった国々(たとえばフィリピン、インド、インドネシアなど)が、彼らの第二言語である英語でしか高等教育を受けられないために、いかに苦労してきたかは周知の事実です。それは彼ら自身が統一した「国語」を持っていなかったことにも起因します。彼らは英語でしか学問や芸術やビジネスを語ることができなかったのです。日本は幸いにして確固たる「国語」を持っていました。それが戦争に負けても、他の国々のように植民地化されることを防ぎ、自分たちの言語で諸外国のすべての学問を修めることを可能にしたのです。

2.「グローバル化=英語化」なのか:「これからは英語の時代だ」というのは本当だろうか。そもそも「グローバル化」というのは世界全体が英語化することなのだろうか。そんなことを単純に信じるのは英語を母語とするアメリカ人などにはいるかもしれませんが、普通の日本人には信じられないことです。日本の総理大臣はG7やG20に出て行って日本語を使わないのでしょうか。そんなことはありません。挨拶や食事中の会話などは英語でするかもしれませんが、きちんとした議論の場には通訳者がいて、首相は日本語を話します。確かに、グローバル化した世界は英語が自由に使える人を多数必要とします。しかし、国民みんながそのレベルに達する必要はないし、どだいそれは無理です。

3.翻訳文化が日本の近代化の原動力である:ヨーロッパの中世において、当時の普遍語で書かれたラテン語聖書の「土着語」(英語、ドイツ語、フランス語など)への翻訳がヨーロッパに近世をもたらしたように、日本は幕末の文明開化の時代から発達させた先進的欧米文化を翻訳によって土着化させることに専念し、それに成功しましました。その努力のおかげで、現代日本人はいかなる先進的学問をも日本語で学ぶことが可能になっています。この貴重な伝統を放棄し、英語一辺倒の教育を推し進めるなど愚の骨頂なのです。

そのようなわけで、英語を偏重する教育を強引に推し進めることはエリート層の一部には役立つかもしれませんが、国民の中核をなす中間層を愚民化する可能性が高いのです。学校教育において、「英語が使える日本人の育成」などという看板は早急に取り下げるべきです。

(注1)「トップ型」の大学には、北海道大、東北大、筑波大、東京大などの国立11大学と、慶応義塾大、早稲田大の私立大学2校が認定され、年間4億2000万円~5億円の補助金が配分されています。また「グローバル化牽引型」の大学として認定されたのは、千葉大、東京外国語大など12の国公立大学と、国際基督教大、上智大などの12の私立大学です。これらの大学への補助金額は年間1億7000万円~3億円です。

(注2)いま筆者の手許にある資料を3冊だけ記します。①山田雄一郎 / 大津由紀雄 / 斉藤兆史『「英語が使える日本人」は育つのか?―小学校英語から大学英語までを検証する』(岩波ブックレット2009年) ②柳瀬陽介 / 小泉清裕『小学校からの英語教育をどうするか』(岩波ブックレット2015年) ③斉藤兆史 / 鳥飼久美子 / 大津由紀雄 / 江利川春雄 / 野村昌司『「グローバル人材育成」の英語教育を問う』(ひつじ書房2016年)

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今年3月に公示された新学習指導要領で、文科省は小学校の高学年(5、6年)の「外国語」を教科とし、週2単位時間に相当する授業を行うことにしました。「外国語」といっても実質は「英語」です。英語を教科とすることの問題点、またなぜ「英語」ではなくて「外国語」なのかについての議論はさておき(注1)、ここでは小学校の英語の読み書きの指導をどうするかの問題を取り上げます。現行の学習指導要領では、小学校の「外国語活動」は読み書きの指導に消極的で、「音声によるコミュニケーションを補助するものとして用いること」(注2)としています。それがなぜ今度の改訂で文字を積極的に指導するように変更されたのか。そして読み書きの指導が解禁となるからには、ぜひ正しい指導を行ってほしいものです。どのようにしたら正しい指導になるのか、また指導する先生方はどのような事柄に留意すべきかを考えます。

まず、今回の改訂で「外国語」に文字指導を加えることになった理由は何でしょうか。それはおそらく、「言葉を学ぶことは文字を学ぶことだ」という日本人の通念に文科省が逆らえなくなったのでしょう。文明開化の明治期に近代的学校制度がスタートした最初から、というより、それ以前の寺子屋での四書五経素読の時代から、子どもたちが寺小屋や学校へ行くのは文字を学ぶためでした。文字を学ぶことは全ての学問の始まりでした。そして現代の小学校においても、子どもたちが小学校に入学して最初に学ぶのは文字の読み書きです。読み書きができなくては、他の教科の学びも困難だからです。しかも日本語は、他の多くの言語に比べて文字のシステムが複雑です。「ひらがな・カタカナ・漢字」の3種類の文字を使い分けなくてはなりません。

このことは日本人には当たり前のことですが、日本語の読み書きの学習は英語の母語話者にとっては想像以上に習得の困難なシステムのようです。「日本語は悪魔の言語だ」と言って嘆いた外国人がいたそうですが、本当にそうなのかもしれません。日本人の子どもにとっても、特に漢字の習得には小学校の6年間を必要とします。当用漢字の習熟をも含めると、その学習には9年の義務教育の全過程を必要とします。それでも(というより、難しい学びだからこそ)、日本人の識字率は世界一を誇ります。このことはOECD(経済協力開発機構)の調査でも明らかになっています(注3)。その成果は、文字の学びに関して日本の子どもたちが長期にわたり忍耐強い努力を怠らないためです。

前回の学習指導要領の改訂(2008年3月告示、2011年度から施行)で小学校高学年に「外国語活動」が新設されたとき、文科省は、音声面の指導を中心にして文字の読み書きをできるだけ控えるように指示しました。それが入門期における外国語学習の常識とされていたからです。しかし実際にそれを実施してみると、生徒からは「文字をもっと学びたい」、教師からも「文字をきちんと教えたい」という要求が高いことが分かりました。英語教育の専門家や実践者の中には、初期における音声指導の重要性を認めながらも、文字の指導に関してそれほど遅らせる必要はなく、むしろ初期の段階からきちんとした文字指導を行うべきだと主張する人もありました。その主な理由は、文字を知らなければ単語や表現を記憶しにくく、家庭での自己学習も難しいということです。

そういうわけで、今回の学習指導要領改訂で、小学校中学年の「外国語活動」で英語の音声に触れさせた後に、高学年で文字を扱うということになったことについては筆者に違和感はありません。しかも子どもたちの多くがそれを望んでいるというのですから、それに反対する理由はありません。そういうことよりも、そこでの問題は小学校で英語を担当する教員に正しい文字指導ができるのかということです。小学校教員の多くは大学卒なので、中学から大学まで英語を学んだ経験があります。ですから英語を話したり書いたりすることには自信がない人も、読み書きならば教えられると考えているかもしれません。しかしそれは危険です。日本語を知っていれば誰でも小学生に読み書きを教えられるというものではないように、英語を知っていれば誰でも小学生に英語の読み書きを教えられるものではないからです。専門家に言わせれば、英語の文字指導は英語教育の素人が考えるほど簡単なものではないのです。

それがいかに難しい知識と技術を必要とするかは、その分野の専門家の書いたものを読むと分かります。最近、田中真紀子著(神田外語大学教授・同大学児童英語教育研究センター副センター長)「小学生に英語の読み書きをどう教えたらよいか」(研究社2017年)という本が出ました(注4)。この本によると、その難しさの原因は次の2点にあります。

(1)英語の文字は音素を表していること:日本の子どもたちが最初に接するのは「ひらがな」ですが、これは音節文字です。ですから子どもが「ひらがな」を読めるようになるためには、語を構成する音の連なりを聞いてそれを音節に分解して弁別でき、語を構成する文字の連なりを見てそれを一つひとつの文字に分解して識別できるようにし、さらにその音節と文字を対応させることができるようになる必要があります。これに対して、英語の文字は音素を表しています。ですから英語が読めるようになる第一歩は、それぞれの文字が音素と結びついていることに気づく必要があります。そこで、英語の文字の学びは音素を弁別できるようにすることが最初の課題となります。そのためには英語の音に十分に慣れて、その主要な音素を意識的に弁別できるようになることが重要です。実は、これは英語を母語として育つ子どもたちにとっても大変難しい学びです。それは単に英語のアルファベットの名前(エイ、ビー、シーなど)を知るのとは全く異なる学びなのです。

(2)英語の綴り字は基本的にはフォニックスの規則に従っていること:英語の綴り字の最大の問題は、ラテン文字を借用しているのにラテン語のように音と文字の対応が規則的ではなく、その対応がかなり不規則なことです。バナナ(banana)は規則的ですが、りんご(apple)やオレンジ(orange)になると違ってきます。これが英語の学習者を悩ませる大きな問題です。しかし、英語の文字と発音の関係はでたらめではないのです。よく調べてみると、そこにはかなりの規則性が見られます。それを教えるために工夫されたのがフォニックスです。特に米国では、1990年代に行われた読みの科学に関する研究に基づいて、現在ではフォニックスが全米の小学校で取り入れられているようです。日本においても、その研究は小学校英語の指導者に必須のものです。

最後に英語の読み書き指導で最も重要と思われることを付け加えます。それは、これまでの多くの中学校教師が経験していることですが、文字の読み書きの学びには個人差が大きく、比較的に進歩の速い子と遅い子がいることです。このことをしっかり頭に入れておかないと、必ず落伍者を産み出します。しかしここで落ちこぼれてしまうと、その子はそれ以後の学びについていけなくなる公算が大です。ですから指導者は、飲み込みの速い子に目を留めて、遅い子を置いてきぼりにしないように注意しなくてはなりません。英語が教科になったからといって、それを選別の道具にすることは許されないことです。

(注1)英語を教科とすることの問題点はすでに本ブログで取り上げました。ではなぜ「英語」としないで「外国語」とするのか―それに疑問を感じる読者もあるかもしれないので、ここで若干の説明を加えます。日本の英語教育は少なくともタテマエとしては、小学校から高校に至るまで、これまで一貫して「英語」は「外国語」の中の一つとして扱われています。しかし現実には、英語がつねに第一外国語の地位を占めてきました。その現実を踏まえて、現行の小学校・中学校の学習指導要領は「英語を取り扱うことを原則とする」と書いています。ただし一部の中学校(主として私立中学校)では、伝統的に、英語以外の外国語を取り上げているところがあります。また高校(公立高校を含む)では、文科省がそれを奨励していることもあり、他の外国語(中国語・韓国語・フランス語・ドイツ語・スペイン語・ポルトガル語など)を第1外国語または第2外国語として取り上げている学校があります。しかし実際には、大学入試が英語に偏っているため、高校生は他の外国語を選択する余裕がなく、英語以外の外国語履修者はきわめて少数(高校生総数の約1.5%)です。

(注2)現行の小学校学習指導要領の「外国語活動」には、内容の取扱いについて次のように書かれています。

「外国語でのコミュニケーションを体験させる際には、音声面を中心とし、アルファベットなどの文字や単語の取扱いについては、児童の学習負担に配慮しつつ、音声によるコミュニケーションを補助するものとして用いること。」(外国語活動 第3 指導計画の作成と内容の取扱い 2.のイ)

(注3)OECD(the Organization for Economic Cooperation and Development)が2011~2012年に24の国・地域の16~65歳成人を対象としたリテラシー調査(読解力調査)では、日本の平均点は296点の第1位で、2位のフィンランド(288点)を8点上回っていました。この8点差は統計的に有意とされています。ちなみに3位はオランダ(284点)、4位はオーストラリア(280点)、5位はスウェーデン(279点)と続いています。

(注4)この本は「理論編」と「実践編」から成り、その中心は「音素認識を高める指導」と「フォニックスを使った読み書きの指導」です。そして指導の対象が小学生ですから、歌やチャンツを使ったり、絵本を使ったり、身体を使ったりする工夫が必要になります。英語を専門としない小学校教員で、高学年の「外国語」を担当することになった方々は、ぜひこのような本をじっくり読んで、英語の読み書き指導の基本を理解していただきたいと思います。

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今号の第1特集の標題は「先行実施まで1年 小学校英語で今年したいこと・考えたいこと」で、第2特集の標題が「教員養成・教員研修の新スタンダード 完成コア・カリキュラム」となっています。いずれも今年3月に公表された新学習指導要領で大きく改訂された「小学校英語」がテーマです。これらの特集記事を今回の批評の対象とします。

さて、これらの「小学校英語」の記事に目を通して筆者が感じたことは、これらはいったい誰のために書かれているのかということでした。おそらくこのテーマに興味を抱く読者の多くは、今すでに小学校英語に関係している人たち、これから関わることになりそうな小学校教員、そしてそのことに大きな関心を持っている中・高の英語教師でしょう。新学習指導要領が公表されて、小学校高学年の英語がどのように指導されることになるのか、これまでの「外国語活動」と「教科外国語」とではどう違うのか、来年度からの移行期間と2020年度からの全面実施に向けて現在どんな準備がなされているのか、そしてどんな移行措置が取られるのか、ということではないかと思われます。そういう観点からすると、本号の記事はすでに先行試行を行っている方々の実践に焦点が置かれていて、一般の先生方にはピンとこない記述が多いのではいかと思われます。

言うまでもなく、教科としての「小学校英語」は小学校教育の歴史上はじめてのことですから、小学校教員や中高の英語科教員にとってもこれまで経験したことのない教科です。したがって教員にとっても分からないことだらけなのです。そういうわけで、このような特集記事では、それらの記事の背景となる基本的な情報を最初に整理して示すことが重要です。今回の記事ではその役割を文科省教科調査官の直山木綿子氏が果たしていると思われますが、そうであれば、これを特集の最初に載せるのがよいと考えられます。今号の最初の記事は「小学校で今年したいこと・考えておきたいこと」というテーマの座談会で、4人の小学校教員の座談会が掲載されています。しかしこれらの方々は現在すでに小学校で英語指導を行っている人たちなので、読者の多くはいきなりその人たちの実践上の細かな問題に関する議論に投げ込まれて、戸惑いを感じることでしょう。したがってこの記事はもっと後ろに回すべきでした。

そこで直山教科調査官の記事を最初に読みます。これは小学校英語の2020年度全面実施に向けて、文科省がそれまでの移行期間にどんな教材を開発し、どんな研修計画を順次実施しているかについて丁寧に解説しています。ですからこの記事は、移行期間中に研究開発校などの先進的な取組を行っている小学校教員をはじめ、そのことに関心を持つ小・中学校の教員には大いに役立つことでしょう。特に印象的なのは、小学校教員のための研修体制づくりです。それは各地域の「英語教育推進リーダー」を核とした研修体制です。まず各教育委員会から推薦を受けた約200名の小学校教員が中央研修に参加し、その人たちが自身の自治体に帰ってリーダーとなり、研修で受けた内容について各学校から選ばれた1名の中核教員を対象にした研修を行う。そしてその中核教員が中心になって、各学校で校内研修を行うという仕組みです。これについての筆者の感想は、さすが有能な人材を集めた文科省だけあって、少なくとも形式的には良く出来た企画だと思いました。問題はそれが文科省の意図したように進行するかどうかです。

筆者の正直な感想は、実際はこの企画通りには進まないだろうということです。その理由は、第一に、学校ごとに選ばれる中核教員が研修に出たとしても、そこで十分な研修がなされる保障がないからです。たしかに、各地域から選ばれる全国約200名の「推進リーダー」となる人たちは、中央での研修によって、かなりの指導力を身に付けることができるでしょう。もともとかなりの英語力を持つ人が選ばれると予想されるからです。しかしその人たちが自分の自治体に帰って行なう「中核教員」のための研修については、彼らの身に付けた技量がどれだけ役立つかは不明です。多くの中核教員の英語力が必要なレベルに達していないと考えられるからです。また各地域の研修に関しては教育委員会指導主事がその指導に当たると言いますが、地域によるばらつきは避けがたく、最低限の研修の質も保障されてはいません。学ぶ内容は豊富であり、十分な研修時間を確保することも非常に困難です。

そして最も混乱が予想されるのは各学校で行われる校内研修です。それがどれだけまともに実施されるのかは大いに疑問です。学校現場はどこも多忙であり、英語指導を行うだけの余力のある学校は少ないからです。文科省はこれを校長の責任にするのでしょうが、それでは現場が気の毒です。やはり責任は文科省が取るべきです。この文科省作成による研修計画の根本的な問題点は、英語の教員免許証を持たないばかりか、英語を実際に使った経験をほとんど持たない小学校教員に教科英語を担当させることにあるからです。

たしかに、小学校教員の多くは大学卒以上の学歴を有しているので、英語を学んだ経験は皆さん持っています。しかし本気で英語習得にエネルギーを費やしたことのある人がどれだけいるでしょうか。特に「話す」や「書く」については、本格的な訓練を受けたことのある人はごく少数だと思われます。今回の文科省が企画した研修計画は、そういう人たちを短期間の研修でなんとかしようというのですから、どだい無理があるのです。このことは教科調査官の直山氏もよくご存知で、この解説文の末尾に「小学校外国語教育の担当調査官として、これで環境整備が万全であるとは思っていない」と苦しい弁解をしています。

ところで今号の『英語教育』第2特集の「小学校の教員養成・教員研修コア・カリキュラム」(粕谷恭子)を見ると、それは「(1)授業設計と指導技術の基本を身に付けること、(2)小学校において外国語活動・外国語の授業ができる国際的な基準であるCERF B1レベルの英語力を身に付けることを目標とする」と書かれています。そして(1)の「指導に必要な知識・技能」の目標を達成するために、題材の選定、教材研究、指導計画、授業の進め方などに関して18の研修項目が挙げられています。また(2)の「英語力」の研修項目として、「授業で扱う主たる英語表現の正しい運用」や「発音や構成・リズム・イントネーションを意識した発話」など、英語指導者として必要な8項目が挙げられています。これを見れば、大学での従来の小学校教員養成課程を修了した小学校教員たちが、短期間の研修で教科となった英語を担当できるだけの英語力と指導力を身に付けることは、ほとんど絶望的であることがよく理解できます。

小学校英語について他にも述べたいことは多々ありますが、それらは別の機会に譲ることにして、この問題の取り上げ方に関して『英語教育』編集部に一つだけ希望を述べてこの<番外投稿>を終わります。このような問題の多い教育改革に関するトピックを取り上げる際には、単に行政府の企画に基づいた考え方や実践を紹介するだけでは不十分で、その企画から外れてそこから取り残されることで起こるさまざまな問題を予想し、それらにどう対処したらよいのかを考えさせるような記事も取り上げていただきたい。たとえば、英語を不得意とする小学校教員が、止むを得ず担当せざるを得ない状況に置かれたときにどうすべきか、また英語力に欠陥のある人が英語授業を担当することになったとき、生徒を不幸にしないためにはどうしたらよいか、など。それは時に政権の意向に反する論考も含まれるでしょうから、場合によっては、雑誌の編集者はかなりの勇気を必要とするかもしれません。しかし教育現場は権力からは本来中立なものであり、教師は自分の教えている子どもたちの将来のために、現在置かれている状況の中で、子どもらにとって最善の道を選択する責任と義務があります。英語教育に関して、そのことを考える上で必要な情報を提供することこそ、このような広い読者層を有する雑誌の使命だと評者は考えています。

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ご承知のように、安倍首相が5月3日の記念日に憲法改正を求める集会にビデオ・メッセージを寄せ、東京オリンピックが開催される2020年を目指して憲法改正を推進したいと述べました。その中で、具体的な改正の例として、憲法9条1項、2項のあとに自衛隊の存在を3項として明記すること、及び高等教育を全ての国民に開かれたものとすることを挙げました。これは私的な団体への首相の個人的な激励のメッセージではありますが、これまで憲法改正に関して具体的な改正点に触れなかった首相としては異例のことです。さっそく反論も出ていて、これらがすんなり受け入れられるわけではないようですが、これからしばらくは、国会をはじめあちらこちらで、この首相案をめぐって喧々諤々の議論がなされることでしょう。

憲法9条については筆者も人並みに関心を持っていますが、2番目の高等教育をより開かれたものにする問題については、常々筆者の最大の関心事であり、老骨に鞭打ってその議論に加わる必要があると感じています。もとより、選挙で一票を行使する以外に政治に関与する方策を持っていない一国民に過ぎませんので、いくら口角泡を飛ばして議論しても仕方のないことかもしれません。しかしこの教育問題については筆者も日ごろからいろいろと考えており、このブログの場を借りて一言私見を述べさせていただきたいと思います。

最初に、安倍首相がこのことに触れているメッセージ箇所の文言を確かめます。すると「(義務教育と同様に)高等教育についても、全ての国民に真に開かれたものにしなければならない」となっていて、一部の新聞に書かれている「高等教育の無償化」という言葉は使われていません。首相の立場からは「無償化」というような、実現の見通しが立たないものではなくて、もっと実現可能な現実的方策を国民に議論させるのが得策だと考えたのでしょう。そう考えると「高等教育を真に全ての国民に開かれたものとする」という表現は実に巧妙であり、そのこと自体に反対する人は少ないと思われます。逆に、そういうことは憲法に書き込むまでもなく、現行のままで十分に対応できるという議論も起こるでしょう。首相は本丸の憲法9条改訂の衝撃を和らげるために、この誰もが反対しないと思われる教育問題を緩和剤にしよう考えたのかもしれません。

ところで、大学を含む高等教育の「無償化」を目指すにしろ、それを「全ての国民に開かれたものとする」にしろ、その議論は必ずや財源の問題を避けて通るわけにはいきません。無償化とまではいかなくとも、それを全ての人々に開かれたものにするには、何を措いても財政の裏づけが必要になるからです。義務教育である小・中学校の無償化は現行憲法で無償とすることが定められていますが、それでさえ、授業料以外の保護者の負担はかなりの額に達しており、完全無償化は完全には達成していません。また、進学率が100%に近い高校ですら、私立学校を含めた授業料の無償化はいまだに達成していません。そもそも公立高校の授業料が無償とされたのは、民主党政権が2010年3月に成立させた「公立高等学校に係る授業料の不徴収及び高等学校等就学支援金の支給に関する法律」でした(注)。しかし私立高校には無償化は進んでおらず、東京都が近く無償化を進めると聞いていますが、それが他の県にまで広がるのかどうかは不明です。授業料の無償化を大学教育まで拡大するとなると、国公立大学に限ってもその道のりは遠いと言わなければなりません。

そういうわけで、この問題を首相や政府あるいは国会だけに任せておくことはできません。彼らに任せておけば、いろいろと議論はするでしょうが、現在の経済と軍事優先の政策のままでは、結局は財政的に困難だということで終わるのは必然です。現在の文科省が進めているような財政の裏づけのない改革は、きわめて部分的なものであり、現場の教師たちをますます多忙にし、教育の質的低下につながります。そうならないようにするためには、高等教育を全ての国民に開かれたものとすることがなぜ必要なのか、という根本のところから議論を始めなければなりません。それがぜひ必要なのだという認識を多くの人が共有するようにならなければ、財源の障壁をぶち壊すことはできません。国民の多くが、自分たちの納める税金の多くの部分を教育に注ぎ込む覚悟がなければならないのです。

いま筆者の手許に中澤渉著『なぜ日本の公教育費は少ないのか』(勁草書房2014)という本があります。この本は、日本における公教育費への財政支出が低いのはなぜかという問題に真正面から取り組んだ研究です。まず国際比較において、日本政府の教育に対する公的支出の割合はきわめて低く、先進国で最低水準にあります。OECDの表(2013年)によれば、「公的支出全体に占める公教育支出の割合」は日本が9.3%で、他の先進国の支出(スイス、デンマーク、ノルウェーなどの15%台)をはるかに下回っています。同OECDによる「対GDPの公教育支出の割合」も日本は3.8%で、ノルウェー、デンマークの8.8%とは大きく水をあけられています。高等教育への支出についても日本は0.7%で、ノルウェー2.6%、デンマーク2.4%とは大きな差をつけられています。なぜ日本はこのようなことになったのでしょうか。

中澤渉氏の分析によれば、高等教育の費用負担について、社会が負担すべきだと考える人は少数で、親や家族が負担すべきであると考える人が約8割を占めるという調査結果から、結局のところ、「日本人の間で、教育があまり公的な意味をもつものと認識されていない」ということが、日本の教育費負担に関する最大の問題になっているというのです。日本では教育費、特に高等教育の学費は個人の責任であり、社会全体で支えなくてはならないものではない、という考え方がいまだに一般的なものとなっているのです。ではどうしたらそういう国民意識を変えることができるか?―中澤氏もそれに対する魔法の杖は持っていないようです。結局は、教育費を公的に負担すべしという理念が社会的に浸透するのを待たなければなりません。道は遠いけれど、教育専門家をはじめ、この問題に関心を持ち、そのことに気づいた人たちが声を合わせて、公教育における費用の負担の必要性を広く訴え続けるしかないのです。

その場合に警戒すべきことが一つあります。それは、政権が主導してそういう政策を作成するのがよいという考え方が、国民の多くに存在することです。現在の安倍首相のような力あるリーダーが主導すれば、事柄がスピーディーに進展するように思えるのかもしれません。現在行われている国会での議論でも、そのような発言をする質問者がいます。しかし、政権が高等教育の問題に大きく係ることが危険であることは、教育へのその介入が顕著になっている現状を見るとき明らかです。大学教育に限っても、文科省の介入が顕著になりました。まず教授会の権限が縮小され、大学学長の権限が大幅に拡大されました。また大学への予算の配分は、文科省の意向に沿った大学改革を進める大学が優遇されるようになりました。大学の評価に成果主義が導入され、結果を出すのに時間のかかる研究が不利になりました。その時々の政権の方針に追随する文科省の打ち出す教育政策に、今や心ある多くの人々が危機感を持っています。教育の問題を政権主導にすることは非常に危険なのです。

(注)この法律でさえ、安倍政権はばらまきだ、金の無駄だと批判して、所得制限をつけることにし、高校教育の無償化を後退させています。

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最近の教育改革に関するキーワードの一つが「アクティブ・ラーニング」であることは夙に知られています。2016年12月21日に出された中教審(中央教育審議会)の答申にもこの用語が使われていました。そこには、これからの教育は子供たちが「何を学ぶか」だけではなく、「どのように学ぶか」という学びの質を重視した授業改善を図っていくことが重要であるとし、次の学習指導要領改訂では子供たちの学びの過程を質的に高めていくために「アクティブ・ラーニング」の視点からの授業改善を行うことが必要である、と述べられています。しかし今年2月14日に公表された学習指導要領改定案には、意外なことに、「アクティブ・ラーニング」(以下AL)の用語が使われていません。それに代わって、「主体的・対話的で深い学び」という表現が頻繁に使われています。なぜそうなったのかは興味ある問題ですので少し調べてみました。

新聞報道(朝日新聞2017年2月15日)によると、文科省担当者はこの点に関して、「学習指導要領は広い意味での法令にあたり、定義がないカタカナ語は使えない。ALは多義的な言葉で概念が確立していない」と説明しているとのことです。たぶんそういうことなのでしょう。最近の教育界におけるこの語の使用頻度はすさまじく、アマゾンで「アクティブ・ラーニング」をキーワードとして検索すると、これに関連した本が驚くほど多数出版されていることを知ります。これだけ流行してしまうと、その定義が複雑化して曖昧になることは避けられません。勉強好きな教師たち中には、これらの本を読んで頭が混乱してしまった人もあるのではないでしょうか。

そこでALの由来について調べてみました。するとこれは大学教育に関連した議論で使われ始めたことが分かりました。従来から大学における授業の多くは教師の講義が中心で、学生は教師が各自の専門分野に関して行う講義に注意深く耳を傾け、その内容を理解し吸収するというのが主な活動でした。もちろん、時には学生が講義の内容に関して質問し、教授がそれに真剣に応じたりして面白い議論に発展することはありました。しかしそれはむしろ偶発的で、教師があらかじめ準備して意図的にそういう議論に導くというケースはあまり無かったように思います。筆者が学生時代を過ごした1950年前後には、ほとんどの大学の授業(特に講義科目)がそうでした。学生がそれで満足していたわけではありませんが、当時はまだ戦後の混乱期から回復しておらず、そういう授業にまめに出て、教師の面白くもない講義をノートすること以外に学習方法が見つからなかったのです。

余談になりますが、そのころ筆者が通っていた文京区茗荷谷のキャンパスには、旧制度の東京高等師範学校・文理大と、新制度によって生まれた東京教育大が混在しました。校舎はまだ戦災の跡も生々しく、教室はまったく整備されておらず、図書館もほとんど使い物になりませんでした。ですから授業がどんなにつまらなくても、それに出席して先生の講義をノートすることでしか学習の仕様がなかったのです。時おり放課後に都電で神田神保町の古本屋街に出かけて行って、探していた本や欲しかった辞書を見つけて小躍りして喜んだものです。

しかし戦後の復興が進み、大学の修学環境が改善されていくにつれて、そういう教師の一方的な情報伝達の授業では学生が満足しなくなりました。それは当然のことでした。教師が話すものは、授業に出るよりも図書館に行って本を借り出して読むほうが簡便だし、近年はインターネットを利用すれば必要な情報はいくらでも手に入るようになりました。今の時代に教師の講義をただ黙って聴くなどというのは、ずいぶん時代遅れになってしまったのです。しかし時代は変わっても、大学の授業の仕方はなかなか変わりませんでした。その理由は、大学教師の多くは専門分野の研究者なので、自分の研究には熱心でも授業はいい加減な人が多かったからです。中には、現在は少なくなったでしょうが、授業は自分にとって余分な雑務だと考えている人さえいました。そういう人は授業の仕方を工夫しないので、自分がかつて学生時代に教わったように授業をしていたわけです。

ALはそういう大学の授業を何とかしようという運動として始まったものです。その直接のきっかけとなったのは、2012年8月28日の中央審議会答申であったようです。この答申のタイトルは、「新たな未来を築くための大学教育の質的転換に向けて~生涯学び続け、主体的に考える力を育成する大学へ~」という長いものですが、要するに、大学生たちの「受動的な学び」を「能動的な学び」へと転換しようということです。その用語集の「アクティブ・ラーニング」には、「教員による一方向的な講義形式の教育とは異なり、学修者の能動的な学修への参加を取り入れた授業・学習法の総称。(中略)発見学習、問題解決学習、体験学習、調査学習等が含まれるが、教室内でのグループ・ディスカッション、ディベート、グループ・ワーク等も有効なアクティブ・ラーニングの方法である。」と説明されています。

こうして最初は大学の授業改革から始まったものが、やがて高校や小・中校の教育に波及していくわけです。先の中教審答申から遅れること2年、2014年11月20日の下村文科相から中教審に出された「初等中等教育における教育課程の基準等について」という諮問の中に、「アクティブ・ラーニング」というカタカナ語が使われたのでした。これが小中高にこの語を広めたきっかけになったようです。しかし小・中学校では、ALという言葉が流行するずっと以前から、教師が一方的に講義をするという形式の授業ではだめで、子供たちをいかにして授業の内容に動機づけるかが教師たちの最大の関心事でした。「アクティブ・ラーニング」という用語は小・中校の先生がたには耳に新しいものでしたが、そこで推奨される授業の進め方に彼らが特に新しさを感じることは無かったと思われます。

しかし一部の高校の教師たちには、ALはショックだったかもしれません。なぜなら、高校の教師の中には、自分の専門分野に関して専門家としての自負を持っている人がかなりいます。そしてそういう人たちは、大学の研究者たちと同様に、授業よりも自分自身の研究のほうを大事に考える傾向があります。筆者の旧制中学時代にもそういう教師が何人かいました。しかし、いま思い起こしてみて、印象に残っている教師の幾人かがそういう人たちであったことから、彼らの存在価値は大きかったように思います。そういうことを考えると、高校の授業が生徒主体のもっとアクティブなものにするのは望ましいことですが、学校全体がそういう授業に長けた教師一色になっては面白くありません。学校には(特に高校段階では)いろいろな教師がいて、それぞれが個性を発揮することも大切なのではないでしょうか。今度の学習指導要領案がAL に代わって「主体的・対話的で深い学び」という表現にしたことで、自分の専門分野について深い学識を持った教師にも、自分の授業について様々な工夫をする余地を与えるという意味で、筆者はこの変更に肯定的な評価をしたいと思います。

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文部科学省が推進している「コミュニケーション能力育成」一辺倒の英語教育は行き詰っています。たとい現在の計画で10%くらいの英語エリートを育成することに成功したとしても、他の多くの生徒を置いてきぼりにしますから、高校生の学力差は拡大するばかりです。中学卒業生の大部分が進学する高校教育の現状からして、この問題を放っておくことはできません。そしてその改革の目指す方向は高校英語教育の多様化です。前回は、「英語以外の外国語を生徒が選択できるようにすること」が、そのアプローチの一つであると述べました。

そして高校英語教育を多様化するもう一つのアプローチは、「生徒の英語学習に関する様々なニーズにこたえること」です。すでに述べたように、高校生には英語の学習意欲の観点から3種類のグループに分けられます。第1のグループに属するのはごく少数の「英語エリート」で、自分の英語習熟度を母語話者に匹敵する程度にまで引き上げることを目指す者たちです。第2のグループは評判の良い大学への進学を希望する者たちで、その当面の努力を大学入試に集中し、あわよくばそこで獲得した英語力を将来の必要につなげたいと願っている者たちです。そして第3のグループは英語学習に困難を感じていている者たちで、ここには中学校までの英語に躓いてすでに学習意欲を失っている者たちから、意欲はあっても高校の授業にはついていくことができない者たちまで、様々なレベルの者が含まれます。高校生の英語学習の現状を分析すると、そこには学習のニーズに関する多様性がすでに存在するのです。

文科省は第1グループの英語リートや、第2グループのうち見込みのありそうな者の教育には熱心ですが、高校の授業についていけない生徒たちに対しては比較的に冷淡です。中教審答申(2016年12月)には次のような記述があり、わが国の教育行政がエリートのための教育だけではなく、そうでない生徒たちへの教育にも配慮していることを示そうとしています。

「中学校で学んだことを実際のコミュニケーションにおいて運用する力を十分に身に付けていないといった課題のある生徒も含めた高校生の多様性を踏まえ、外国語で授業を行うことを基本とすることが可能な科目を見直す必要がある。」(p.199

しかしこれらの生徒の指導をどうするかということになると、「必履修科目(特に学習の初期段階)において、中学校の学び直しの要素を入れることとする」というだけで、実際にどのような指導を行うかなどについては何も書かれていません。したがって学力的に中位以下(前記第2グループの一部と第3グループ)の生徒を指導する教師たちは、担当する生徒の実態に応じて、それぞれに独自の指導目標や指導法を創出する必要があります。学習指導要領が幾度改訂されても高校の教師たちが文科省の意図するように動かないのは、このような事情によるのです。

では、文科省が作成する学習指導要領が自分の勤務する学校の教育実践にさほど役立たないと判断するとき、その教師はどうすべきでしょうか。学習指導要領は法令として定められるものですから、公立学校の教師はもちろん、私立学校教師もそれを完全に無視することはできせん。それは国の方針として尊重する義務があります。しかし学校の教師は警察官とは違います。学習指導要領のもろもろの規定は尊重しなければなりませんが、生徒を愛し育てるという教師としての職務がそれらに優先します。それゆえ各学校における実際的指導は、かなりの程度現場の裁量に委ねられます。学習指導要領もそこまで立ち入ることはできません。たとえば、「授業は英語で行うことを基本とする」と法令は定めています。しかしそれはたてまえであって、英語授業での日本語使用が全面的に禁止されていると考えるべきではありません。常識的に考えて、必要な場合には日本語の使用は認められます。また、第二言語や外国語の指導において、必要に応じて学習者の母語を使用するのが効果的だということは、これまでの学問的研究でも認められている公理でもあります。

では高校における英語授業を多様化するために教師ができることは何でしょうか。また何をなすべきでしょうか。そのことを考えるためには、まず学習指導要領の画一的な指導目標によってではなく、もっと柔軟に、英語を学ぶことの多様な目的や価値を認めるところから始めるのがよいでしょう(注)。そうすることによって、教師が英語を教えることを楽しみ、生徒がその授業を楽しむことが可能になります。教師が授業を楽しむことができなくては、生徒をその授業に惹き込むことはできません。そして教師が自分の担当する授業を楽しむためには、教師は自分の授業に自信を持っていなくてはなりません。外からの圧力によって、自分の考えている授業とは異なる授業をしなくてはならないとすれば、それは教師にとっても生徒にとっても不幸なことです。

このことに関して一例を挙げます。前記の2016年12月の中教審答申には、「統合的な言語活動」を一層重視した目標を設定することの必要性が強調されています(答申p.195)。来年3月に公示される予定の高等学校学習指導要領にも、きっとそのような文言が記されるでしょう。その理由は、実際のコミュニケーション場面では「聞く・話す・読む・書く」などの活動が種々に組み合わされて実行されることが多いからだといいます。しかしながら、統合的な活動ができるためには、それぞれの活動を支える基礎的な知識や技能の獲得がその前提となります。英語の文章を読んで理解するためには、そこに出現する語彙や文法の規則を知らなくてはなりません。また理解した文章を正しく音読するためには、英語の音韻と綴り字の規則を知り、書かれた文字系列を正しく音声化する技能を獲得しなければなりません。教科書本文の内容を要約したり、それについて議論したりするという活動は、さらに高度な知識と技能を組み合わせた活動になります。

しかし教師ですら、そういう高度な活動を豊富に経験している人は少ないのではないでしょうか。だからと言って無理は禁物です。自分の経験したこともない活動を自分の授業に性急に採り入れようとすると失敗します。それは往々にして形だけの模倣になって、「たましい」の抜けたものになります。そうなっては、その活動は死んだものとなってしまいます。教師にとって未経験な活動は、自分の得意とする活動の発展として、教師自身の判断で取り入れていくのがよいのです。そうすれば、教師も引き続き自分の授業を楽しむことができますし、自分にとって自信のある活動の中に新しい試みを取り込むことで、自らの冒険心を満たすというおまけもつきます。そうやっているうちに、やがて気がついてみると、自分の授業が大きく変革していることが分かります。これは筆者自身が教員をしていた時代に幾度も経験したことですので、確信を持って言うことができます。教師にとって何よりも大切なことは、教師が自分の授業を主体的・創造的に組み立てていくことです。

「冒険心を満たすこと」は、教師だけではなく、学習の過程にある生徒たちにもぜひ経験させたいものです。いつも同じパタンで授業が進んでは彼らも退屈します。ときに冒険をして、これまで経験をしたことのない活動を行うことによって、彼らも自分の持っている新しい力に気づくことがあります。そしてそれが自己変革のきっかけともなります。生徒たちにそういうフレッシュな経験をさせることができれば、たとえ見栄えのしない授業であっても、それは決して無駄にはなりません。授業は様々な個性を持った教師と生徒との心の交流の場です。それはつねに、一期一会の貴重な瞬間をそれぞれの生徒に提供する可能性を持っています。そしてそれこそが創造的授業の特徴なのです。

(注)英語を学ぶことの多様な目的や価値について、筆者は本ブログの以下の投稿で論述しました。関心のある方はご覧ください。「私の英語教育時評(18)英語を学ぶことの価値と楽しさ」(2016114日投稿)