Archive for 7月, 2012

ここでお示ししたいのは、現在のイスラエルが再建された頃にそこに移住した人々が、第二言語としてのヘブライ語を毎日どれだけ使用しているかを、年齢別に調査したものです。

 ご存じのように、現代イスラエルは1948年5月、国連特別委員会の勧告によって、英国委任統治領であったパレスチナに建設された国です。そこに無理やりユダヤ人のための国を作ったものですから、中東は恐ろしく不安定な地域になりました。そのような政治的な問題はさておいて、そこに住む人々の多くは世界各地に離散していたユダヤ人とその家族でした。彼らは父祖の地に自分たちの国を再建するために数十カ国からやって来ました。風俗習慣や文化や言語がまちまちだったので、それをどのようにしてまとめるかは大問題でした。特に言語の問題は重要でした。幸いにして、建国の数十年前から古代のヘブライ語を現代語として復活させようとする運動を続けていた人がいました。それはベン・イェフダー(1858~1922)というユダヤ人で、彼はヘブライ語を日常語とするユダヤ人国家を夢見て、一生をその研究と普及のために捧げた人でした。残念ながら彼の生きている間にはその夢は実現しませんでしたが、彼の死後にそれが現実のものとなったのです。

 ユダヤ人がヘブライ語を話すのは当然のことと思う人もあるかもしれません。筆者も『ヘブライ語の父 ベン・イェフダー』(ミルトス 1988)という本を読むまではそのように考えていました。しかし事実はそうではありません。ヘブライ語は2000年以上も前(紀元前200年頃)に、すでに話し言葉としては使われなくなっていたのです。紀元元年頃のローマ時代にユダヤ人の間で使われていたのはアラム語で、ナザレのイエスもアラム語を使っていたと言われます。しかしユダヤ人は、トーラ(モーセ五書)やタルムード(ユダヤ教の律法書)などのヘブライ語で書かれた古文書は読むことができました。彼らの多くは祖国を失っても、それらの古文書を子どもの頃から教えられ、その一部を暗記させられていたからです。それにしても、いったん死語となった言語を現代に甦らせるには、大変な努力を必要としたに違いありません。

 前置きが長くなりましたが本題に戻ります。イスラエルに移住したユダヤ人たちの、毎日のヘブライ語使用状況を国勢調査のデータから分析したものがあります。次の表は、イスラエル移住から15年を経過した人々が毎日どれだけの割合でヘブライ語を使用しているかを、移住時の年齢別に示したものです(Bachi 1956による)。

0-4歳(89.1%)  5-9歳( 88.6%) 10-14歳(86.1%) 15-19歳(84.2%) 

20-29歳(76.5%) 30-39歳(62.5%) 

40-49歳(48.4%) 50-59歳(40.4%) 60+ (27.9%)

この表から分かることをまとめてみましょう。ご覧のようにヘブライ語の使用率は0-4歳が最高で、年齢が上がるにしたがって下がっています。特に目立つのは、20歳未満では80%以上の使用率が、20歳を超えると80%を割り、さらに30歳を超えると急激に下がり、70%を優に割ってしまっていることです。また、40歳を超えるとその率がさらに下がって50%を割り、日常におけるヘブライ語の使用が半分以下になってしまいます。このことは、40歳を超えてイスラエルにやって来たユダヤ人たちが、新しい言語環境に慣れるのにいかに苦労しているかを表しています。

 新しく再建されたイスラエルにやって来たユダヤ人たちは、彼らの父祖の地ではヘブライ語でコミュニケーションをとることに同意して集まってきた人々です。ですから彼らのヘブライ語の習得動機はこの上なく高いものであったと考えられます。家族どうしでは、彼らがやって来た土地で使用していた言語を用いることが多かったと思われます。しかし新しい土地の人々とのコミュニケーションはヘブライ語でしたから、それを一日もはやく習得して使えるようになることは、彼らが新しい土地で生きて行くために必須のことでした。若い子どもたちはそのような状況にすばやく適応しました。しかし20代、30代の人々はかなりの困難を感じたことでしょう。それでも多くの人々はその状況に適応しようとしました。しかし40歳を超えた人々にとっては、その新しい状況は本当につらいものだったと想像されます。上の表は、死語となったヘブライ語を再生させようとした新生国家イスラエルの、そのような状況を非常に良く表わしています。それと同時に、バイリンガリズムと年齢の関係に関心のある人たちに貴重な資料を提供しています。(To be continued.)

前回の終りに、個人のバイリンガリズムに共通する特徴の一つとして、「バイリンガルの言語能力は固定的ではない」ということを挙げました。それは環境によって変化するだけではなく、年齢や個人的な資質などの要因とも関係します。「変化する」というのは、バイリンガルとして二つの言語能力が向上するというだけではなく、二つの言語のバランスが変化していくということでもあり、その差が大きくなることもあれば小さくなることもあり、時にはどちらか一方の言語が衰退するということもあります。そういうことについて、これまでのバイリンガリズム研究から分かっていることを整理してみたいと思います。

 まず子どものバイリンガリズムから見てみましょう。3歳までの子どもは、ある環境下では二つの言語をごく自然に習得することが知られています。それを「同時バイリンガリズム」(simultaneous bilingualism)と呼びます。その典型的な環境として知られるのは次の三つです。

①両親の母語が異なり、それぞれの親が一貫して自分の母語で子どもに接する場合(どちらかの親の母語が地域社会の言語と同一である場合が普通)、②家庭では両親が共に自分たちの母語である少数派言語を用い、子どもにも一貫してその言語で接し、家の外では地域社会の言語を第二言語として子どもに習得させるようにする場合(西山千氏の場合がそうでした)、③両親が共に自分たちの言語と地域社会の言語を話すバイリンガルで、それら二つの言語を日常的に混合して用い、子どもにも同様に二つの言語を混合して接する場合(たとえば、プエルトリコでは人々はスペイン語と英語を混合して用い、子どももそのような混合された言語を習得します。そして地域社会全体でその混合言語が安定して用いられています)。

 これらの中で特に①の事例は多数報告されています。その中で文献として最も有名なものを紹介します。それは音声学者レオポルト(Leopold)による娘ヒルデガートの10年(1939-49)にわたる詳細な言語発達の記録です。ヒルデガートの家庭では父親はドイツ語しか話さず、母親は英語しか話しませんでした。彼女は2歳までは二つの言語の区別ができず、ドイツ語と英語の語彙をしばしば混同しました。3歳になると、彼女は二つの言語の使い分けを始め、父親にはドイツ語で、母親には英語で話すようになりました。しかしまだ二つの言語の混用も見られ、英語の文の中に数語のドイツ語が混じっていたり、ドイツ語の文の中に英語の単語が使われたりしました。レオポルトによると、このような言語の混用は言語間の干渉というよりも、子どもがコミュニケーションを効果的に行うために必然的に起こったものであろうということです。その後しだいに、二つの言語の区別がはっきりとなされるようになります。

 レオポルトの研究でもう一つ注目すべき点は、家族が住む地域社会の変化によって、ヒルデガートのドイツ語と英語の使用割合が大きく変化したことです。彼女がドイツにいたときにはドイツ語を話す割合が大きくなり、アメリカに戻って学校に通い出すと英語が優勢になりました。同時に彼女のドイツ語と英語の使用能力も変化したと思われます。これは環境によって個人レベルで言語の優勢さの度合いが変化することを示しており、多くのバイリンガルの経験するところです。西山千氏もそのような体験を語りました。ヒルデガートはその後十代半ばになって、ドイツ語をあまり話さなくなったと報告されています。

 「同時バイリンガリズム」に対して、子どもが一つの言語(通常は母語となる言語)を先に習得し、その後に第二言語を習得する場合を「連続バイリンガリズム」(sequential bilingualism)と呼びます。日本人の家族がアメリカなどの英語使用地域に移住すると、その家族の子どもも地域の優勢語である英語に晒されることになります。一般に3歳までの子どもは教育を介することなく、地域社会の話し言葉を自然に習得していくと言われています。そして二言語のバランスをうまく取ることができれば、将来バイリンガルになるケースが多いことが知られています。しかし3歳を過ぎると、多くの場合、子どもは幼稚園や小学校に通い、そこでの教育を通して英語を第二言語として学ぶことになります。この場合には、バイリンガルとして成功する率はずっと下がります。習得環境によってはもっと下がります。アメリカでは、英語以外の第二言語で教育を受けてバイリンガルになれる生徒は、20人に1人もいないと言われています(Baker 1993)。日本で第二言語として英語を学ぶ場合には、その率はもっと低いかもしれません。ともかく習得の年齢と環境がバイリンガリズムの成否を左右する重要な要因です。このことに関して、ここにイスラエル建国の十数年後になされた興味ある調査がありますので、それを次にお示しします。          (To be continued.)