Archive for 8月 25th, 2012

(105) 英語との付き合い 31

茅ヶ崎自由大學 (承前)

 私は1968年から10年間の契約で、茅ヶ崎市が藤沢市に接する浜竹というところの戸建の借家に住んでいた。両市の境目は東海道線の辻堂駅で、我が家は丁度その境目に位置していたので、何かにつけて両方の都市の格差に驚いた。当時下水道の整備が遅れていた茅ヶ崎市の我が家のトイレは未だに汲み取り式であった。整備された藤沢駅前に比べて、茅ヶ崎駅前にあった公衆トイレはまさに顔を背けたくなるような汚さで有名だった。多くの市民が格差を実感していただろう。重岡健司氏は、自分の子供たちが通う小学校の校庭が余りに未整備で危険なことに怒り、PTA会長になった。それが彼の市民運動家として始まりであった。NHKからニューヨークのAP通信社に出向した重岡氏は、ロサンゼルス市の都市計画を取材し、全てが市民参加で進められている状況を見て、帰国したらこれを茅ヶ崎で実現したいと決意したという。帰国後同志を募り、市民参加の街づくりをスローガンに次の市長選挙に挑む運動を続けているうちに、自分が市長候補に推されるハメになってしまった。

 重岡氏は弁舌さわやかな上、容姿に優れた熱血漢であったから、運動員や支持者はPTA役員をはじめ、女性が圧倒的に多かった。この人達と選挙運動を進めるうちに私はあることに気づいた。彼女たちの知性の高さと旺盛な好奇心それに行動力である。特に教育問題への関心が高かった。茅ヶ崎自由大學は、重岡氏を中心に、こうした女性達が作った学習会で、選挙はわずかの差で旧勢力にやぶれたが、学習会は残った。

 自由大學の学習会は著名人を招いての講演会が主体で、参加希望者の数を見て会場を決めていたが、英語の学習会は定期的に開催するので、そうはいかず、茅ヶ崎駅に近い貸し教室を使用し、instructorは私と高橋氏が休日に交代でつとめることになった。第一回の英語クラスに集まったのは11人、サラリーマン、教師、労組の委員長、主婦と多士済々であった。後に茅ヶ崎方式英語会となるこの学習会の基礎を作ったのはまさにこの11人の士であった。中でも日刊工業新聞の記者(後に論説委員長・現経済評論家)だった松本明男氏には、その後も長く親身のお世話になった。松本さんは茅ヶ崎校のホームページで「1981年4月、『一粒の種』のように、湘南の地の一隅で育まれたこの『小さな実験的学習会』がいまや全日本規模へと輪を広げ、グローバル化時代における国際コミュニケーションの促進に役立っている姿を見ると感慨無量なものがあります。」と語っている。

 茅ヶ崎自由大學の英語クラスは口コミで会員数を増やし、第3期には50人近くになった。それに伴って生じたのが資金の問題である。私は、教本販売による英対話学習の全国展開を主目的に、検証作業である学習会は一応3年間で終了予定だったので会費は無料とした。そして講習料を取ってくれという会員には、皆さんはいわば英対話学習法の効果を調べるめの”モルモット”なので、カネをもらうわけにはいかないのだとつたえていた。しかし、会員が増えてくると、英語力に従ってクラスを分けなければならず、教室も借りる回数が大幅に増え、教材の作成費もかさむようになり、個人では負担しきれなくなった。そこで、かかった経費を会員に分担してもらうことを、自由大學に提案したが、無料で。手弁当の市民運動という趣旨に反するということで拒否された。もはや、この学習会を途中で止めることは不可能になったと判断し、将来のことを考えれば、費用の分担制は不可避であると考えて、話し合いを重ねたが、結局折り合いがつかず、英語クラスは自由大学を離れて独立することになった。 (M)