Archive for 8月 30th, 2012

行間を読むとはどういうことでしょうか。そしてそれはどのようにすれば可能になるでしょうか。すでに見てきたように、書き手は文章を書き進める際に1つ1つの語句を意識的に選択します。特定の場面で用いられる決まり文句などには自動的に(つまり、ほとんど無意識的に)選択されるものもありますが、その際もまったく意識が働いていないとは言えません。そして書いた文章を推敲する際には、すべての語句を意識に上らせて吟味します。どんな天才的な作家でも、推敲をまったくしない人はいないと思われます。天才作曲家モーツァルトは頭の中に浮かんだ曲をスラスラと楽譜に書いて、あとで書き直すことはなかったと聞いていましたが、最近の研究では決してそうではないことが判明しています。彼は人一倍緻密で完璧主義者だったようです。そして多くの場合、そのような書き手の意識の働きは必ずしも出来上がった文章や曲の中に直接現れてはいません。

 書かれた文章は、推敲という点で、話された言葉とは大きく違います。特にアドリブの話し言葉は書き言葉の下書きに似て、語彙選択の誤りや、支離滅裂な文章構造や、不適切な表現が至る所に出てきます。そのうえ、話し言葉は概して冗長です。強調したいことを反復したり、意に尽くさないと感じる表現を他の表現に言い換えたりするからです。話したものをそのまま書き留められたら、話者は恥ずかしい思いをするでしょう。印刷するときには、たいてい話者自身または編集者の手によってつじつまの合うように修正され、なんとか読める文章に仕上げられます。政治家がアドリブでした談話を記事にされて、失言だと非難されるのはよくあることです。

 書かれた文章は、推敲される時点で冗長さが削られ、誤りが修正されます。強調の仕方も、話し言葉とは異なる仕組みが使われます。話し言葉では強調が音調によって表わされますが、書き言葉ではそれができないので、他のいろいろな工夫がなされます。大切なのは、全体的に書き言葉では簡潔さが好まれることです。最近は書き言葉の伝達手段が多様になり、簡便にスピーディーにできるようになったので、以前よりも冗長になってきています。それでも話し言葉に比べるとずっと簡潔です。電話ではとめどもなく話し続けることができても、メールは短いほうが好まれます。そういうわけで、書き言葉を深く理解するためには、書き手がそれを書くときに持っていた知識や感情など、そこに書かれていないものを読み取ることが必要になるわけです。それが行間を読むということです。

 行間を読む(read between the lines)ということで連想されるのは聖書です。聖書は古い書物であり、「ザ・バイブル」(the Bible)というその名の通り、近世以前のヨーロッパでは書物と言えば聖書のことでした。15世紀半ば、高価な手書き写本に代わって活版印刷本が作られました。そのとき作られた『グーテンベルク聖書』(ラテン語)から半世紀後には、このメディアは広く受け入れられ、ヨーロッパ各地に多くの印刷所が作られました。かの宗教改革者マルティン・ルターは22歳のとき(1505年)修道院に入りましたが、そのときラテン語聖書の一冊が手渡されたということです。数年後にヴィッテンベルク大学教授となって『詩篇』を担当することになったとき、彼はラテン語の詩篇全文のテキスト(行間を大きく開けたもの)を印刷に付し、それを聴講の学生全員に持たせたということです。ルターが授業の準備のために使った講義の草稿が現在も残っていますが、それには行間と欄外の余白に、彼の直筆による細かな書き込みがぎっしり詰まっています(徳善義和『マルティン・ルター』(岩波新書2012)。彼は聖書を神の言葉と信じていたので、聖書の行間に隠されている真の意味を捉えようと必死に努力したのでした。聖書の行間を読むというルターの努力が、やがて宗教改革という運動となってヨーロッパ全土に広がることになります。

 聖書のような古典を読むのと、現代語で書かれた文章を読むのとでは違うという反論がなされるかもしれません。近代の外国語教育理論ではそのように言います。確かにまったく同じではありません。しかし私たちにとって英語は外国語ですから、ヨーロッパ人がギリシャ語やラテン語の聖書を読むのと基本的に違いはないと考えます。それらの古典語は現在そのままでは使われていませんが、かつては実際に使われていた言語でした。ですから、古典を深く理解するには、それらの言語が使われていた時代についての膨大な知識と深い思索が必要になります。それに比べれば、現代世界で広く使われている英語を読むことはずっと楽なはずです。(To be continued.)